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6月14日はゲバラの生誕日

6月14日はゲバラの生誕日



 クーバフアームキューバ(Cuba クーバ)は、切っても切れない間柄。

 キューバといえば、ゲバラカストロ

 だから、クーバフアームのシンボルは、実はゲバラなのです。

 「クーバの湯」(半ば露天風呂、私しか入らない。)では、常設のゲバラの写真展を行っています?



 さて6月25日我輩の誕生日です。

 6月23日は、ダンスをやっている息子(yuudai)の誕生日です。

 そして6月14日ゲバラの誕生日です。(1928年生)

 同時に祝おうかなあ・・・。三重の山奥で・・・。焼酎のグラスを天にかざして・・・。

 さらに、ゲバラの遺骨が掘り出されたのが1997年6月28日です。

 



 6月は、いろいろと記念すべき日が多いなあ?



 右写真はゲバラ一歳の頃です。



  これは私の小学4年生の時です。

  



  私の高校生時代です。

  



 親父ゲバラは、同じ学年です。

 ゲバラが生きていれば、親父と同じ年代だと思うと、なんか、考えてしまいますね。

 ゲバラの活動は、はるか昔のことのように思っていたけれど、まだ最近の出来事なんだ。



 ゲバラが殺されたのが、1967年10月。私が中学3年生の時。 

 39歳だったから、生きてれば、81歳。現役でもおかしくはないね。



 この写真は、殺されたあと、公開された時のもの。

 



 殺されてから30年たって、ついに発掘された遺骨。

 



 

 



 いまだに中南米をはじめ第三世界では、カリスマ的に人気があるそうだ。

 埋葬されていたボリビアのイゲラでは、キリストと同等の扱いだ。

 アルゼンチン出身だから、マラドーナなどアルゼンチンのサッカー選手はみな肩にゲバラの刺青を彫っている。

 日本でも、サッカーの浦和レッズが、ゲバラの横断幕を掲げている。



 どうしてこれほどまで人気があるのか。

 思想とは関係なしに、「かっこいい」「ぶれない」「ピュア」なのが、人気の秘密のようだ。

 確かにカッコイイ。

 ジョン・レノンが、「世界で一番カッコいい男」とほめたたえたのも、うなづける。

 若者はゲバラのTシャツを、今も買い求めている。



 今の時代、「ぶれない」のが、キーワードかも。

 「ぶれない政権」「ぶれない首相」・・・・。



 



 



 

 



 ゲバラの生い立ちを、簡単にまとめた私のメモです。

 長文ですので、暇で、興味のある人は通読してみてください。

 



チェ・ゲバラの革命的でピュアな生き様



  2歳で重い喘息に



 1928年、6月14日、ゲバラは5人兄弟の長男として、アルゼンチン(キューバではない!)の裕福な家庭に生まれた。

 建築技師であった父は、いろんな事業に手をだし、家計は不安定だった。

 両親ともラデイカルな思想の持ち主であり、家は本であふれ、兄弟はみな冒険心に富み、知識欲にあふれた人間

 に成長した。

 ゲバラは2歳のときに重い喘息を発症した。この病気が生涯つきまとった。

 少年時代のゲバラは、喘息にもかかわらず、ラグビーなどのスポーツに熱中した。

 だが冷たい水は嫌った。喘息の発作がおきるからだ。

 生涯、風呂とシャワーを避けたのは、これが理由である。

 チェスの名手でもあった。



 

 

 文学好きの母の影響もあり、読書にも熱中した。

 ボードレールがお気に入りだった。

 喘息を自分で克服しようと、強じんな努力を重ね、並外れた意志力と目的意識が自然に身についた。

 喘息発作で、登校できない期間が長くあったが、成績は優秀で、知識の広さは群を抜いていた。

 数学と考古学が得意であった。



 1946年、ブエノスアイレス大学に入学した。

 1年次では工学を学んだが、2年次で医学に転じた。

 相変わらず冒険心は旺盛で、1950年、原付自転車でアルゼンチン3000マイルの旅に出た。



  放浪の旅に出発



 1951年(私が生まれる前年)、大学を1年休学し、先輩のアルベルト・グラナダとバイク「ポデローサ2号」で南アメリカの旅に出た。

 途中でバイクが故障したので、ヒッチハイクをした。

 この旅は、その後のゲバラの人生を大きく左右するものとなった。

 チリでは、銅山で働く労働者、特にインデイオが不当な扱いを受け、搾取され、悲惨そのものである現状に

 強い衝撃を受けた。共産主義者のチリ人労働者と友達になった。

 ペルーでは、学生でありながら臨床医として、ハンセン氏病療養所で働き、インデイオたちと交流を深めた。

 次に渡ったコロンビアは、内戦で疲弊していた。ブラジルを経て、ベネズエラに到着した。

 ここで旅は終わる。

 (詳しくは映画、「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見てください!)。



 先輩アルベルトはここで病院勤めをするが、

 ゲバラは医学部卒業試験のため、ブエノスアイレスに戻った。

 「アレルギー疾患について」という論文を発表し、1953年医師の資格を得た。



医師から革命の戦士に



 当時のアルゼンチは独裁政権で、ゲバラは軍医強制徴募を避けるために、d

 再びラテンアメリア再訪の旅に出た。

 祖国からの、永遠の脱出となった(1953.7)。

 このときキューバでは、カストロのひきいる「革命的学生グループ」がモンカダ兵舎を襲撃した。

 これは失敗であった。

 メンバー113人のうち61人が殺され、リーダのカストロと弟のラウル(現在のキューバ首相)は投獄された。



 ゲバラはボリビア、ペルーと旅し、グアテマラに向かった。

 グアテマラで、ペルー人の亡命女性活動家、アメリカ革命人民同盟(APRA)のイルダと出会い、恋におちいった。

 イルダはロシア革命に精通しており、レーニン、トロツキー、毛沢東についてのゲバラの教師であった。



 グアテマラでゲバラは、アメリカの反革命干渉に抵抗して、抵抗軍に身を投じたが、

 追われる身となり、イルダとともにメキシコに逃亡した。

 そこで二人は結婚し、娘イルデイタが誕生した。

 (イルダは1970年はじめに、娘イルデイタは1995年、父親と同じ39歳で亡くなった。)



 イルダはゲバラを、キューバ人亡命革命家たちに引き合わせた。

 そのリーダがカストロであった。

 1955年7月、二人は出会い、そこで10時間も話し合った。

 その日から、医師ゲバラは革命の戦士になった。



キューバ革命成功



 メキシコシテイー郊外の農場で、ゲリラ軍としての軍事訓練(行軍、登山、個人戦、射撃、ゲリラ戦理論等)が始まった。

 しかし、メキシコ警察に動きをつかれまれ、カストロ、ゲバラとも、30人が逮捕され、投獄された。

 カストロは1週間、ゲバラは57日間の投獄であった。

 容疑不十分で釈放されたが、計画が察知された以上、一刻の猶予もなかった。



 カストロ達はおんぼろヨット「グランマ号」に82人(8人乗りで上限25人)を乗せて、

 キューバに向け、メキシコを出航した。

 嵐のため7、日間かけてやっとの思いで、キューバに上陸(実際は座礁)した。

 しかし待ち構えていた「バチスタ政府軍」に銃撃を受け、仲間は次々に殺された

 かろうじて生き延びた12名は、シエラ・マエストラ山中(反バチスタの農民5万人が暮らし、ゲリラ活動には最適の場所)

 にこもり、新たなゲリラ戦の準備をした。

 12名の中に、カストロとゲバラがいた。



 ゲバラは山中で農民とともに生活し、夜には読み書き教室を開き、医療や歯の治療にあたった。

 彼のすばらしい評判は、瞬く間に広がった。

 ゲバラは新聞「自由キューバ」を発行し、ラジオ放送局を開局した。

 政府軍による「ゲリラ兵は一掃した」という、嘘の情報を、これらで粉砕した。

 地元の農民がゲリラ軍に次々に加わり、各地で局地的なゲリラ戦を開始した。

 1年半がたち、ゲリラ軍の組織も固まり、攻勢に転じた。



 1958年、ついにエル・イグエで決定的勝利をおさめた。

 ゲバラは司令官(コマンダンテ)に任命され、キューバ革命の指導者の一人となった。

 政府軍は空軍と海軍も出動させたが、何千という農民が次々に革命軍に加わり、

 ついに1959年1月1日、ゲリラ軍はサンタクララを占拠し、1月3日にはハバナを占拠した。

 政府軍は総崩れになった。

 ついに革命が成功した。



 

 

革命後のゲバラ



 革命後、改革は急ピッチで進められた。

 ゲバラは最初の数ヶ月間は、農地改革のための計画に没頭した。

 6月には大使として、3ケ月間で12か国を歴訪した。

 日本も訪問した。

 東京都知事、外務大臣、通産大臣と会談し、トヨタ自動車工場を見学した。

 当時の通産大臣である池田隼人は、わずか15分間だけ時間をさき

 「日本と通称協定を結びたかったら、まず日本の繊維製品を買え!」という高飛車な対応をした。



 秘密裏に広島の原爆資料館も見学した。



 帰国すると農業改革における工業化の責任者になった。

 大農園を解体し、国営農場を造り、砂糖とタバコ農園を国有化した。

 かつてキューバの公益事業を全面的に支配し、利権をほしいままにしてきたアメリカは激怒した。

 CIAは亡命者を操り、カストロ暗殺を含め、新政権の転覆を図った。

 大統領ケネデイは1960年、1500人の亡命キューバ人を送り込んだが、国家転覆に失敗した。



 新たにソ連砂糖の輸入国になった。

 1960年、ソ連との間に「貿易援助協定」が結ばれた。

 ゲバラは11月には国立銀行総裁に就任した。

 1961年には工業相に、62年にはキューバ統一革命組織幹部会メンバーを歴任した。

 ゲバラは「自主的労働」を説いて、寝る間も惜しみ(1日2~3時間の睡眠だけ)、率先して働いた。



 



 



 



 



 その間、イルダとは離婚した。

 革命軍の若き戦士であり、教師であり、秘書であったアレイダと再婚し、4人の子供をもうけた。



 



 1962年、ケネデイは国交断絶に踏み切った。

 アメリカのキューバ侵攻に危機感をもったカストロは、軍事面でもソ連との関係を強化した。

 ついに核戦争の一歩手前の「キューバ危機」にまで発展した。

 危機は回避されたが、キューバ抜きのフルシチョフとケネデイの秘密合意にゲバラは激怒した。



カストロに宛てた「別れの手紙」



 工業相としてのゲバラの厳格な労働者の管理、几帳面な性格と尊大な語り口、

 カストロとの特別な関係、人間的社会主義の主張、ソ連批判、献身的な自主的労働等々、

 ゲバラを慕うが、革命思想と行動についていけない勢力が政府の中に生まれた。



 事実上、内政からは締め出された。

 再びキューバを代表して3ケ月の外遊に出た。

 だがアルジエリアでついにゲバラは公然とソ連を批判した。

 「ソ連は・・帝国主義的搾取の共犯者である・・」。

 ソ連はカストロに、ゲバラを指導部から追放しなければ、援助は削減すると脅した。

 帰国したゲバラは、丸2日間カストロと話しこんだ。



 



 しばらくしてゲバラは消息を絶った。

 10月3日、キューバ共産党第一回大会でカストロは、ゲバラからの「別れの手紙」を読み上げた。



再び戦場へ



 65年4月、ゲバラは新たなゲリラ戦を求めて、200名の黒人キューバ人とともに、コンゴのジャングルに入った。

 しかし、そこでは完膚なきまでに惨敗した。

 (このあたりのことは映画を見てください。)

 チェコのプラハに4ケ月滞在した後、変装して秘密裏にいったんキューバに戻った。

 カストロと相談した結果、新たにボリビアの向かうことにした。

 カストロが送り込んだ秘密工作員とともに、ゲリラ基地を作り、首都にも地下組織を作った。

 新たなゲリラ戦が開始された。

 だが、そこの農民はキューバほど窮乏していなかった。

 むしろ炭鉱労働者こそが窮乏していた。

 親ソ連の、ボリビア共産党の支援も駄目だった。



 1967年10月6日、野営していたゲバラら17人は、政府軍6個小隊に包囲され、

 ゲバラは捕まり、翌日小学校の教室で銃殺された。 (1967年10月8日)                             































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プロフィール

    「ぎーやん」

Author:    「ぎーやん」
 定年を待たずに退職し、長年の夢だった「自給自足的生活」に、無謀にも挑戦しています。
 たった一人で、日夜、鳥獣と格闘しながら、「クーバフアーム」と名付けた里山を、試行錯誤しながら、切り盛りしています。場所は三重県の山奥。奥伊勢の一角です。
 おかげで今や、スリムな肉体に大変身。この1年で、10キロの体重減。なにやら栄養不足の影の声も・・・チラホラ?
 毎日を、上の写真のような笑顔ですごしたいものですネ。
この似顔絵は、元同僚の、招来猫子さんの作です。

連絡先 
(メール) giyan@ma.mctv.ne.jp   
   クーバフアーム所長   まで。

 

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