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原爆詩人・栗原貞子は革命的ロマンチスト(2)

原爆詩人・栗原貞子は革命的ロマンチスト



(2)






 私が二十歳過ぎの頃、ヒロシマで、栗原貞子さん本人の、詩の朗読講演を、何度も聞きました。

 見るからに、お百姓さんかな?という、風情の方でした。

 そうですよ。栗原貞子さんは1913年(大正2年)、広島市の農家の次女に生まれたのです。



 「農業詩人」、となっていてほしかったなあ。はかない、私の希望としては。

 

 



 

 彼女は、見かけによらず、ロマンチストでした。それっも、革命的ロマンチストでした。

 彼女が、1992年に書いた本、『問われるヒロシマ』を参考にしながら、それを跡づけしましょう。



 



 



 彼女は、広島県立・可部高等女学校(現広島県立可部高等学校)入学のころ(1926年)から

 
詩、短歌を書き始めたようです。

 

 女学校卒業後は、歌誌『処女林』(後に改題『眞樹』)の同人になっています。

 この頃、彼女は、中国新聞紙上の文芸欄に、短歌革新の新進歌人としてデビューしました。

 毎週のように、詩、短歌を投稿していました

 

 どうも、この文芸活動を通じ、当時アナキストと称された栗原唯一と知り合ったようです。

 彼のまじめな活動に、ひかれたようですね。

 女学校を卒業して1年後、貞子は唯一との結婚を決意します。

 まだ、18歳でした。(もう18歳と、いうべきかな?)

 とはいえ、当時の日本は、中国への侵略の直前で、社会主義を「信奉」する栗原唯一は、「国賊」扱い。

 官憲から、要注意人物として、監視されていました。



 だから、二人の結婚を、親が認めることは、まずありえませんでした。

 残された道は、そう、「駆け落ちです。貞子18歳、唯一26歳



 「われわれの前途は茨の道だ。それが承知できるなら、ついてこい。」(唯一)

 この殺し文句に、貞子は、コロっといかれたようです。

 二人で「茨(いばら)の道」を、歩むことになりました。



 四国の松山に、逃亡(?)します。

 そこには童話作家で、「文明批評」という新聞を発行していた宮本武吉と、

 若いアナキストの中野徹という友人がいました。



 松山の旅館に投宿しますが、金が続くわけがありません。

 困った唯一は、貞子を置いて金策のため郷里にいったん帰ります。

 貞子は送られてきたお金で宿代を清算し、彼を追って広島の宇品港に帰ってきました。

 しかし、親から保護願いが出ていたので、そこで警察に(逮捕)保護されてしまいました。

 

 貞子は親に軟禁、監視される羽目になりました。

 彼女には、「絶望」しかありませんでした。



 そこで貞子が決心したのは、ブラジル行きでした。

 そこにいけば何とかなるかも、という一途の望みもありましたが、

 何もかもから、逃避し、新天地に行きたかったに、ちがいありません。



 親は、諸手をあげて賛成し、すぐに諸手続きをとりました。

 貞子は、知らない男性と、書類の上だけで入籍し、神戸の移民収容所に入り、船を待っていました。



 その時、一本の電報が彼女の元に届いたのです。



 <サンノミヤエキニ 六ジ デ ムカエタノム リンコ>



 リンコ(林子)というのは、歌誌「処女林」の同人で、貞子の文学友達でした。英文学者で詩人の大原三八雄の妹です。

 まだ監視の身で、お金を持たされていない貞子は、同室の人に電車賃を借り、三宮の駅に向かいました。



 そこで待っていたのは、リンコ(林子)ではなく、唯一だったのです。

 彼は、リンコから貞子の手紙を見せられ、飛んできたようです。

 翌日には、出港という、まさにロマンあふれる、恋愛劇です。

 

 二人の「愛の逃避行」の「第二幕」が始まりました。

 大阪から徳島へと転々、そして最後には、また広島に戻って来ました。



 1931年、長男を出産しました。でも、貧困の中、わずか二歳、「消化不良」で亡くなりました。

 夫が「国賊」扱いにされ、貧困と思想弾圧にあえぎながらも、

 二人は同志的絆で固く結ばれ、広島市の金屋町で金物・日用雑貨の店を開くなど、

 ギリギリですが「楽しい生活」を送っていました。

 1935年、長女・真理子誕生。

 1939年、次女・純子誕生。

 

 1940年、唯一は徴用されましたが、運良く、脚気で送還されました。

 しかしこの時、中国で見聞きした日本兵の「残虐行為」に衝撃を受け、バスの中で知人に話したところ、密告され、

 警察に出頭を命じられ、起訴されました。



 貞子は戦争中、夫の影響も受けながらも獲得した、社会主義的ともいえる強い思想で、短歌・詩・エッセイなどを

 書き綴っていきました。詩「黒い卵」は、1942年の作です。

 これらの作品は、1946年8月に、詩歌集『黒い卵』として出版されました。

 当然検閲に引っかかり、詩三篇、短歌十一首が削除されましたが、貞子の戦争中の反戦思想が見事に表現されました。

 どういうわけか、原爆に関するものは、削除されなかったようです。



 これは、検閲された「初版」本です。

 



 これは、「完全版」です。

 



 貞子・唯一夫婦はそれぞれ被爆しています。

 被爆の前年1944年、唯一は徴用され、三菱精機祇園工場に勤務することになりました。

 その勤務先に引越しということで、栗原一家は、祇園町長束に転居しました。



 貞子は、爆心地から4キロメートルの地点で原爆を見、その後9日には、隣家の女学生の遺体を引き取りに行き、

 入市被爆しました。

 この時のいたましい体験は、「原爆で死んだ幸子さん」の詩となりました。



 一方唯一は、三菱精機の従業員が、広島市内で家屋解体の作業に出ていて被爆したのを救出するため入市、

 そして黒い雨にもあいました。そのため彼は11月頃まで原爆症で苦しんだのです。



 敗戦後の1946年、『中国文化』を夫唯一とともに創刊したことは、前回のブログで紹介しました。



 その後は、原爆詩人として、反戦、反核、反差別、反天皇制の闘士として、

 また原水禁運動のリーダの一人として活躍されたことについては、ここでは割愛します。



 最後の最後に、一つの詩だけ、紹介させてください。



 「ヒロシマというとき」、という詩です。

 これは1972年に書かれた詩で、栗原さんの「思想」を見事に表現しています。

 被害だけでなく、加害の側面からも、被爆を見よう、という、私と同じ思想です。

 

[ヒロシマというとき]



<ヒロシマ>というとき

<ああ ヒロシマ>と

やさしくこたえてくれるだろうか

<ヒロシマ>といえば<パールハーバー>

<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>

<ヒロシマ>といえば 女や子どもを

壕のなかにとじこめ

ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑

<ヒロシマ>といえば

血と炎のこだまが 返って来るのだ



<ヒロシマ>といえば

<ああ ヒロシマ>とやさしくは

返ってこない

アジアの国々の死者たちや無辜の民が

いっせいにおかされたものの怒りを

噴き出すのだ

<ヒロシマ>といえば

<ああ ヒロシマ>と

やさしくかえってくるためには

捨てた筈の武器を ほんとうに

捨てねばならない

異国の基地を撤去せねばならない

その日までヒロシマは

残酷と不信のにがい都市だ

私たちは潜在する放射能に

灼かれるバリアだ



ヒロシマといえば

ああ ヒロシマと

やさしいこたえがかえって来るためには

わたしたちは

わたしたちの汚れた手を

きよめねばならない



 



 1980年 夫 死去。



 1994年 バイクにはねられ、腰の骨を骨折。



 1999年 右脳梗塞のために半身不随となります。



 2005年 3月6日、革命的ロマンチスト、自宅にて死去。(92歳でした)





 

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プロフィール

    「ぎーやん」

Author:    「ぎーやん」
 定年を待たずに退職し、長年の夢だった「自給自足的生活」に、無謀にも挑戦しています。
 たった一人で、日夜、鳥獣と格闘しながら、「クーバフアーム」と名付けた里山を、試行錯誤しながら、切り盛りしています。場所は三重県の山奥。奥伊勢の一角です。
 おかげで今や、スリムな肉体に大変身。この1年で、10キロの体重減。なにやら栄養不足の影の声も・・・チラホラ?
 毎日を、上の写真のような笑顔ですごしたいものですネ。
この似顔絵は、元同僚の、招来猫子さんの作です。

連絡先 
(メール) giyan@ma.mctv.ne.jp   
   クーバフアーム所長   まで。

 

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