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広島を電撃訪問したゲバラ。(51年前の今日)。

今日(7/25)は、ゲバラの「広島訪問」から、51年目です。

8月6日と8月9日の「原爆投下」を、再度、思い起こそう!

  



 今日は、朝から「ゲバラ賛歌」のyu tubeを見ながら(聞きながら)ブログを更新しています。





 1959年7月15日、キューバ革命からわずか半年後

 チェ・ゲバラは、使節団を引き連れて、団長として日本を訪問しています。(31歳のときです)

 このことは、唯一「朝日新聞」が取り上げただけで、ほぼマスコミは無視しました。



 23日には、愛知県のトヨタ自動車工場や、新三菱重工の飛行機製作の現場を見学。

 24日には久保田鉄工・堺工場を見学し、丸紅、鐘紡と回って、

 夕方には、大阪商工会議所主催のパーティーに出席しました。 

 

 当時、ゲバラは日本では無名に近く、通産相の池田隼人とは、わずか15分だけ面会しただけでした。

 今から思えば、ずいぶん非礼な扱いを受けたようです。

 (でも、翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中です。)



 ゲバラは、当初の日本大使館側が準備した「無名戦士の墓詣で」を拒否し、

 逆に「ヒロシマ訪問」を主張しました。当然、日本大使館のスタッフはこれを嫌がりました。

 でも、ゲバラはこれを説き伏せました。

 

 24日に大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くない事を知り、ゲバラは「ゲリラ作戦」を敢行しました。

 翌日(25日)、神戸の川崎造船所を視察した後に、

 オマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使を伴って、全日空機で岩国空港に飛びました。



 (このあたりについては、公式訪問であったとか、なかったとか、

 夜行列車で行ったとか、飛行機でとんだとか、諸説があります。

 念のため、下にフリー百貨事典の「ウイキペデイア」と、

 毎日新聞の記事を引用しておきます。)



 しかし、問題は、どんな手段を使ってヒロシマに行ったかではなく、行った事実が重要なのです。



 ゲバラは、広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、

 原爆資料館原爆病院を訪れました。















 中国新聞の記者であった林立雄氏が単独取材したさいに、

 「なぜ日本人はアメリカに対して、原爆投下の責任を問わないのか」と、ゲバラは言ったそうです。



 ゲバラが広島の状況に驚愕し、その事実をキューバに帰って報告して以来、

 キューバでは現在でも、初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげています。

 教科書で何ページにもわたって記載されています。日本とは大違いです。



 このあたりのことは、「炎の記憶~原爆の残り火をキューバに~」

 というDVDを見てもらえれば、よくわかります。

 これは吉田沙由里さん(NPO法人アテナ・ジャパン代表)が、広島の原爆投下時の残り火である平和の火を、

 キューバに運び、永遠に保存しようとする活動の紹介の番組です。 

 私に連絡くだされば、入手することができます。



 

                                (写真は阪南中央病院労働組合ホームページより)



  日本では、「8月6日」「8月9日」が忘れ去られる傾向があるだけに、

 キューバの教育のすばらしさに、目を見張るものがあります。

 (もちろん、キューバの教育はすべて無料であることを付け加えておきます。)



 カストロも2003年に、広島を訪問し、慰霊碑に顕花しています。



 

                                (写真は阪南中央病院労働組合ホームページより)



 アレイダ・ゲバラも2008年5月に原爆死没者慰霊碑を訪れています。



 

                    

  ゲバラはともすれば、ゲリラ戦の闘士だから、平和のことについては、関心が薄いと勘違いされますが

  じつな、誰よりも強く平和をのぞみ、アメリカの原爆投下を厳しく断罪していたのです。

  本日の7月25日を迎え、さらに8月を迎えるにあたり、ゲバラを尊敬する我輩としては、

  このことを、強く訴えたいと思います。


 

  「ウイキペデイア」から引用。



 『なお、このゲバラの広島行に関しては、市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、

宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かったという説もある。



しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、

当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか、

昭和47年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。



当時の日本の状況で、日本語がまったくわからない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、

無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、

カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、

使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対して

そのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、

また、なによりもこっそり夜行列車で抜け出したにもかかわらず、

広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いである可能性が高い。』




 



《ゲバラ、訪日時に被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問》  

 

 [ 07年10月9日 毎日新聞 ]



 キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として1959年に来日し、

広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。

副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。

フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、

夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。



 ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。

訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。

7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。

アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、

日本政府の許可が出なかったという。

業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。

オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。



 「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、

私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。

帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に

「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。

カストロ議長は03年3月に広島を訪問。

フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。














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    「ぎーやん」

Author:    「ぎーやん」
 定年を待たずに退職し、長年の夢だった「自給自足的生活」に、無謀にも挑戦しています。
 たった一人で、日夜、鳥獣と格闘しながら、「クーバフアーム」と名付けた里山を、試行錯誤しながら、切り盛りしています。場所は三重県の山奥。奥伊勢の一角です。
 おかげで今や、スリムな肉体に大変身。この1年で、10キロの体重減。なにやら栄養不足の影の声も・・・チラホラ?
 毎日を、上の写真のような笑顔ですごしたいものですネ。
この似顔絵は、元同僚の、招来猫子さんの作です。

連絡先 
(メール) giyan@ma.mctv.ne.jp   
   クーバフアーム所長   まで。

 

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