カストロ前議長に、メキシコ日刊紙がインタビュー
キューバのカストロ前議長、
メキシコの日刊紙「ラ・ホルナダ紙」に
5時間のインタビュー記事(8/30)
大阪の友人たちも、キューバから無事に帰ってきたようです。
「ようです。」と、あいまいなのは、直接会って確かめていないからです。
そのうち、当事者たちから、ブログか何かで、帰国の報告がされるものと思いますが・・・?
「キューバを知る会・大阪」の「報告会」は9月12日に予定されています。
さて、キューバのカストロ前議長は、最近は、大病がウソのように、活動していますネ。
その活動の様子については、過去にブログでも書いてきました。
そして、昨日(8/30)のメキシコの日刊紙[La Jornada](ラ・ホルナダ)には、5時間にわたってのインタビュー記事が
掲載されています。(30日は前半、31日は後半部分)(←クリック)
食事をはさんでの、5時間のインタビューですよ!!相変わらず、タフですね。
(カストロさんに負けないように、私は、今日も川で1時間ほど漁をしましたが、亀1匹だけの戦果でした。
どうしようか、としばらく水入り箱の中に保管してある間に、逃亡されてしまいました。あまり食う気はしませんが・・。)
かなりの長文なので、しかも私はスペイン語は苦手なので、見出しだけ、紹介します。
語学に自信のある方は、直接、原文を見てくださいヨ。
ついでに、日本の報道記事も参考のため、掲載します。
見出しのつけ方は、かなり記者の「独善と偏見」が入っているような気がしますが・・・。
さらに、ついでですが、最後に8月2日に、ハバナで 回顧録 『La victoria estrategica』(戦略的勝利)
について発表するフィデル・カストロの記事を、再録します。
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Llegué a estar muerto, pero resucité
”Hay que persuadir a Obama de que evite la guera nuclear”
”No quiero estar ausente en estos días. El mundo está en la fase más interesante y peligrosa de su existencia y yo estoy bastante comprometido con lo que vaya a pasar. Tengo cosas que hacer tod ”
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カストロ前議長「生きたくなかった」
産経スポーツ新聞 2010.8.31 10:31
キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長(84)は30日までに、約5時間にわたりメキシコ紙ホルナダのインタビューに応じ、2006年7月からの病気療養中の生活について「もう生きたくなかった」と述べ、苦痛だったと明かす一方で、現在は健康だと強調した。カストロ氏が療養中の心情を詳細に語るのは初めてとみられる。
カストロ氏は「この人たち(医師)はこんな状況で私を生かし続けるつもりなのか、それとも死なせてくれるのか、と何度も自問した」と、病床での思いを語った。
また「どのぐらいの期間、この苦痛が続くのか分からなかった」とも述べ、弱気になっていたことを明かした。
その後、最悪の状態は脱したが「非常に悪い状態」で、体重は66キロにまで落ちた。AP通信によると、カストロ氏の身長は約190センチとみられており、かなりやせたことが分かる。
ただ現在は「生き返った」とし、体重が85~86キロに回復し「今朝はつえなしで600歩歩いた」と話した。
「世界は、最も興味深く、かつ、その存在が脅かされている局面にある。私にはまだやることがある」と述べ、核戦争の脅威が続いていると強調。核戦争の阻止に努める考えを示した。(共同)
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カストロ前議長「私は死のふちにあった」 療養生活語る
朝日新聞 2010年8月31日14時11分
【ロサンゼルス=堀内隆】
病気療養中のキューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長(84)がメキシコ紙のインタビューで「私は死のふちにあった」と述べ、一時は生死が危ぶまれる状態だったことを明らかにした。
カストロ氏は2006年に「腸の出血」で緊急手術を受けた。メキシコのラ・ホルナダ紙が30日掲載したインタビューでカストロ氏はその後の療養生活を振り返り、「もう生きたいと思わなくなり、医者たちが今の状態で私を生きながらえさせるのか、それとも死なせてくれるのかと考えていた」と、生きることへの欲求さえ失っていた時期があったことを明かした。
そのうえでカストロ氏は、「だが私は生き残った」と語り、一時66キロまで落ちた体重は85キロほどにまで戻って「今朝はつえなしで600歩は歩けた」と回復ぶりをアピールした。
カストロ氏は緊急手術後、公の場から姿を消していたが、今年7月に入って頻繁に外出するようになり、今月7日には国会での演説も短時間ながらこなした。インタビューのなかでカストロ氏は、病名については明らかにしなかった。
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カストロ前議長、60年代の同性愛者迫害で「責任はわたしに」
[ハバナ 31日 ロイター]
キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長(84)が、31日付のメキシコ紙ホルナダでのインタビューで、1960年代に同国政府が進めた同性愛者への迫害政策について、「ひどい不正だった」と自らの責任を認めた。
キューバでは1960年代、同性愛者が「反革命的」とみなされて強制労働キャンプに送られるなどし、1979年に同性愛が法的に認められるまで当局による差別が続いた。
カストロ氏は、こうした政策が「ひどい不正だった」と発言。自身は同性愛者に対する偏見はないとしながらも、「責めを問われるとすれば、それはわたしだ」と責任を認めた。
一方で、1962年10月に起きたキューバ危機など、「生死にかかわる問題が当時は山積していた」と、問題に対処できなかった理由を説明した。
キューバでは同性愛者を取り巻く状況が大きく変化し、今では性転換手術も無料で受けることができる。
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カストロ前議長回顧録、「幼いころから抵抗の精神」
2010年08月12日 14:15 発信地:ハバナ/キューバ
キューバの首都ハバナ(Havana)で回顧録『La victoria estrategica』(戦略的勝利、の意)について発表するフィデル・カストロ(Fidel Castro)前国家評議会議長(2010年8月2日撮影)。(c)AFP/CUBADEBATE/ROBERTO CHILE
【8月12日 AFP】
13日に84歳の誕生日を迎えるキューバのフィデル・カストロ(Fidel Castro)前国家評議会議長(83)が、5日にインターネット上で一部が発表された回顧録『La victoria estrategica』(戦略的勝利、の意)で、革命家としての自らの基礎を築いた幼少から青年時代を振り返っている。
「わたしは生まれつきの政治家だったわけではないが、幼い頃から心に焼きつく出来事を見聞きし、それが世界の現実を知るために役だった」--06年に腸の手術を受け、弟のラウル・カストロ(Raul Castro)現国家評議会議長(79)に後継を託したカストロ氏だが、最近になって公の場に姿を見せる機会が増えている。キューバ共産党の機関紙やウェブサイトでも定期的な執筆を精力的に続けている。
回顧録の正式な出版日程は未定だが、そのひとつの章には、カストロ氏は故郷のキューバ南部ビラン(Biran)での幼少時代からイエズス会(Jesuits)系のカトリック学校での日々、法律を学んだハバナ大学(Havana University)で本格的に政治運動にのめり込んでいった様子などが記されている。
■最初の「抵抗」は学校の教師に向かって
カストロ前議長が、最初の反抗として「自覚して」いるのは11歳のときに、クラス内で彼を叩いた教師に対し、バターのついたパンを投げ返したときだった。「顔に向けて一直線だった。それから手と足を振り回して彼に突っかかった。全校生徒の前だった・・・強圧的で乱暴だったこの教師の信用は地に落ちた。この出来事は学校の語りぐさになった。」
また当時のフランクリン・D・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)米大統領に「敬意に満ちた」手紙を送り、ハバナの米国大使館から受け取りのメッセージをもらったエピソードを紹介している。
子ども時代のカストロ氏は作文が得意で、数学はさらに優れていた。運動はよくできて、その頃から銃が好きだったという。カストロ氏の回顧録で明らかに抜けているように見えるのが恋愛に関する話だ。唯一、大学のドア付近でいじめられ、中に入れなかった後に、浜辺でガールフレンドを前に泣いたことがつづられている。
■「英雄的行為を自分だけの手柄にできる者はいない」
カストロ氏いわく、「帝国(米国)が国力を増しつつあったとき、本気で革命を思い描いていたわずかな人間たちの中に自分はいた。しかし、英雄的行為を自分だけの手柄にできる者はいない。それはさまざまな構想と出来事、多くの人の犠牲の上に成り立つものだった。そうした要素があってこそ、われわれは50年もの間、米国の攻撃と封鎖に耐えたキューバの完全独立と社会革命を勝ち取ることができた」
現在も共産党第一書記として党の指導は続けているカストロ氏は、自分がゲリラの闘士になる上で影響があった出来事はどれも忘れられない思い出だと言う。「思い出すだけで本当に楽しい。わたしが人生でたどった道筋を決定づけた信念は、結局のところ、そのような出来事によって培われたのだから」
またキューバ革命の転換期となったのは、300人のゲリラ兵でバティスタ政権(当時)の1万人の兵士を打ち負かしたシエラ・マエストラ(Sierra Maestra)での戦闘だったという。この「英雄的偉業」が回顧録前半の山場だとカストロ氏は述べている。同書には写真や地図、参考資料なども多数掲載される予定だ。1959年1月1日のハバナ凱旋は現在執筆中の後半に収録されるという。回顧録の抜粋はウェブサイト「Cubadebate.cu」に発表されている。 (c)AFP/Isabel Sanchez
メキシコの日刊紙「ラ・ホルナダ紙」に
5時間のインタビュー記事(8/30)
大阪の友人たちも、キューバから無事に帰ってきたようです。
「ようです。」と、あいまいなのは、直接会って確かめていないからです。
そのうち、当事者たちから、ブログか何かで、帰国の報告がされるものと思いますが・・・?
「キューバを知る会・大阪」の「報告会」は9月12日に予定されています。
さて、キューバのカストロ前議長は、最近は、大病がウソのように、活動していますネ。
その活動の様子については、過去にブログでも書いてきました。
そして、昨日(8/30)のメキシコの日刊紙[La Jornada](ラ・ホルナダ)には、5時間にわたってのインタビュー記事が
掲載されています。(30日は前半、31日は後半部分)(←クリック)
食事をはさんでの、5時間のインタビューですよ!!相変わらず、タフですね。
(カストロさんに負けないように、私は、今日も川で1時間ほど漁をしましたが、亀1匹だけの戦果でした。
どうしようか、としばらく水入り箱の中に保管してある間に、逃亡されてしまいました。あまり食う気はしませんが・・。)
かなりの長文なので、しかも私はスペイン語は苦手なので、見出しだけ、紹介します。
語学に自信のある方は、直接、原文を見てくださいヨ。
ついでに、日本の報道記事も参考のため、掲載します。
見出しのつけ方は、かなり記者の「独善と偏見」が入っているような気がしますが・・・。
さらに、ついでですが、最後に8月2日に、ハバナで 回顧録 『La victoria estrategica』(戦略的勝利)
について発表するフィデル・カストロの記事を、再録します。
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Llegué a estar muerto, pero resucité
”Hay que persuadir a Obama de que evite la guera nuclear”
”No quiero estar ausente en estos días. El mundo está en la fase más interesante y peligrosa de su existencia y yo estoy bastante comprometido con lo que vaya a pasar. Tengo cosas que hacer tod ”
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カストロ前議長「生きたくなかった」
産経スポーツ新聞 2010.8.31 10:31
キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長(84)は30日までに、約5時間にわたりメキシコ紙ホルナダのインタビューに応じ、2006年7月からの病気療養中の生活について「もう生きたくなかった」と述べ、苦痛だったと明かす一方で、現在は健康だと強調した。カストロ氏が療養中の心情を詳細に語るのは初めてとみられる。
カストロ氏は「この人たち(医師)はこんな状況で私を生かし続けるつもりなのか、それとも死なせてくれるのか、と何度も自問した」と、病床での思いを語った。
また「どのぐらいの期間、この苦痛が続くのか分からなかった」とも述べ、弱気になっていたことを明かした。
その後、最悪の状態は脱したが「非常に悪い状態」で、体重は66キロにまで落ちた。AP通信によると、カストロ氏の身長は約190センチとみられており、かなりやせたことが分かる。
ただ現在は「生き返った」とし、体重が85~86キロに回復し「今朝はつえなしで600歩歩いた」と話した。
「世界は、最も興味深く、かつ、その存在が脅かされている局面にある。私にはまだやることがある」と述べ、核戦争の脅威が続いていると強調。核戦争の阻止に努める考えを示した。(共同)
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カストロ前議長「私は死のふちにあった」 療養生活語る
朝日新聞 2010年8月31日14時11分
【ロサンゼルス=堀内隆】
病気療養中のキューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長(84)がメキシコ紙のインタビューで「私は死のふちにあった」と述べ、一時は生死が危ぶまれる状態だったことを明らかにした。
カストロ氏は2006年に「腸の出血」で緊急手術を受けた。メキシコのラ・ホルナダ紙が30日掲載したインタビューでカストロ氏はその後の療養生活を振り返り、「もう生きたいと思わなくなり、医者たちが今の状態で私を生きながらえさせるのか、それとも死なせてくれるのかと考えていた」と、生きることへの欲求さえ失っていた時期があったことを明かした。
そのうえでカストロ氏は、「だが私は生き残った」と語り、一時66キロまで落ちた体重は85キロほどにまで戻って「今朝はつえなしで600歩は歩けた」と回復ぶりをアピールした。
カストロ氏は緊急手術後、公の場から姿を消していたが、今年7月に入って頻繁に外出するようになり、今月7日には国会での演説も短時間ながらこなした。インタビューのなかでカストロ氏は、病名については明らかにしなかった。
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カストロ前議長、60年代の同性愛者迫害で「責任はわたしに」
[ハバナ 31日 ロイター]
キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長(84)が、31日付のメキシコ紙ホルナダでのインタビューで、1960年代に同国政府が進めた同性愛者への迫害政策について、「ひどい不正だった」と自らの責任を認めた。
キューバでは1960年代、同性愛者が「反革命的」とみなされて強制労働キャンプに送られるなどし、1979年に同性愛が法的に認められるまで当局による差別が続いた。
カストロ氏は、こうした政策が「ひどい不正だった」と発言。自身は同性愛者に対する偏見はないとしながらも、「責めを問われるとすれば、それはわたしだ」と責任を認めた。
一方で、1962年10月に起きたキューバ危機など、「生死にかかわる問題が当時は山積していた」と、問題に対処できなかった理由を説明した。
キューバでは同性愛者を取り巻く状況が大きく変化し、今では性転換手術も無料で受けることができる。
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カストロ前議長回顧録、「幼いころから抵抗の精神」
2010年08月12日 14:15 発信地:ハバナ/キューバ
キューバの首都ハバナ(Havana)で回顧録『La victoria estrategica』(戦略的勝利、の意)について発表するフィデル・カストロ(Fidel Castro)前国家評議会議長(2010年8月2日撮影)。(c)AFP/CUBADEBATE/ROBERTO CHILE
【8月12日 AFP】
13日に84歳の誕生日を迎えるキューバのフィデル・カストロ(Fidel Castro)前国家評議会議長(83)が、5日にインターネット上で一部が発表された回顧録『La victoria estrategica』(戦略的勝利、の意)で、革命家としての自らの基礎を築いた幼少から青年時代を振り返っている。
「わたしは生まれつきの政治家だったわけではないが、幼い頃から心に焼きつく出来事を見聞きし、それが世界の現実を知るために役だった」--06年に腸の手術を受け、弟のラウル・カストロ(Raul Castro)現国家評議会議長(79)に後継を託したカストロ氏だが、最近になって公の場に姿を見せる機会が増えている。キューバ共産党の機関紙やウェブサイトでも定期的な執筆を精力的に続けている。
回顧録の正式な出版日程は未定だが、そのひとつの章には、カストロ氏は故郷のキューバ南部ビラン(Biran)での幼少時代からイエズス会(Jesuits)系のカトリック学校での日々、法律を学んだハバナ大学(Havana University)で本格的に政治運動にのめり込んでいった様子などが記されている。
■最初の「抵抗」は学校の教師に向かって
カストロ前議長が、最初の反抗として「自覚して」いるのは11歳のときに、クラス内で彼を叩いた教師に対し、バターのついたパンを投げ返したときだった。「顔に向けて一直線だった。それから手と足を振り回して彼に突っかかった。全校生徒の前だった・・・強圧的で乱暴だったこの教師の信用は地に落ちた。この出来事は学校の語りぐさになった。」
また当時のフランクリン・D・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)米大統領に「敬意に満ちた」手紙を送り、ハバナの米国大使館から受け取りのメッセージをもらったエピソードを紹介している。
子ども時代のカストロ氏は作文が得意で、数学はさらに優れていた。運動はよくできて、その頃から銃が好きだったという。カストロ氏の回顧録で明らかに抜けているように見えるのが恋愛に関する話だ。唯一、大学のドア付近でいじめられ、中に入れなかった後に、浜辺でガールフレンドを前に泣いたことがつづられている。
■「英雄的行為を自分だけの手柄にできる者はいない」
カストロ氏いわく、「帝国(米国)が国力を増しつつあったとき、本気で革命を思い描いていたわずかな人間たちの中に自分はいた。しかし、英雄的行為を自分だけの手柄にできる者はいない。それはさまざまな構想と出来事、多くの人の犠牲の上に成り立つものだった。そうした要素があってこそ、われわれは50年もの間、米国の攻撃と封鎖に耐えたキューバの完全独立と社会革命を勝ち取ることができた」
現在も共産党第一書記として党の指導は続けているカストロ氏は、自分がゲリラの闘士になる上で影響があった出来事はどれも忘れられない思い出だと言う。「思い出すだけで本当に楽しい。わたしが人生でたどった道筋を決定づけた信念は、結局のところ、そのような出来事によって培われたのだから」
またキューバ革命の転換期となったのは、300人のゲリラ兵でバティスタ政権(当時)の1万人の兵士を打ち負かしたシエラ・マエストラ(Sierra Maestra)での戦闘だったという。この「英雄的偉業」が回顧録前半の山場だとカストロ氏は述べている。同書には写真や地図、参考資料なども多数掲載される予定だ。1959年1月1日のハバナ凱旋は現在執筆中の後半に収録されるという。回顧録の抜粋はウェブサイト「Cubadebate.cu」に発表されている。 (c)AFP/Isabel Sanchez
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