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順調かな?我が、野菜たちよ!

順調かな?我が、野菜たちよ!



 連日の梅雨で、体がベトベトします。

 たまに晴れ間がのぞくたびに、畑に行きます。

 野菜たちは、なんとかボチボチ、育っています。

現在、成長中の野菜たちを、紹介します。



 これはナスビです。

 発育不良ですが、時期はずれの霜にもめげず、どうにか成長を続けています。

 



 トマトです。

 まだ青いのですが、すぐに赤い実で、たわわになるでしょうね。

 



 パセリです。

 そんなに多く食べれるものではないので、余り気味です。

 刻んで、お好み焼きの具にしています。

 



 オクラです。

 まだ実はでていません。

 あのネバネバがたまりません。

 



 キュウリです。

 昨年は、虫と病気にやられ、ほとんどだめでした。

 これからが勝負です。

 



 ミニニンジンです。

 間引きをしていません。3本だけ収穫しました。

 



 カボチャです。

 かなり遅い成長ですが、なんとか実をつけてほしいものです。

 



 落花生です。

 難波の黄門さんからいただいたから育ったものです。

 さすが、順調に育っています。

 ビールのつまみに最高です。

 



 ピーマンです。

 シシトウピーマンは、虫も寄り付きません。

 だから、今年もたくさん取れるでしょうね。

 



 つるありインゲンです。

 昨年もたくさん取れました。

 順調です。

 油でいため、しょうゆを少したらすと、酒のつまみにグーです。

 



 ニンニクです。

 何かと話題にされている「宮崎産」の種を使いました。

 大粒です。そろそろ、収穫間近です。

 最近、夏バテ防止に、一日5~10粒は食しています。

 少し、刺激が強いのか、おなかが緩んでいます。

 



 ジャガイモです。

 一部を収穫しました。

 小粒ですが、おいしかったです。

 梅雨明けに、全部収穫します。

 



 唐辛子です。

 サラダ唐辛子なので、そんなに辛くないはずです。

 激辛の赤唐辛子も植えてあります。

 



 アスパラです。

 初めての栽培経験です。

 か弱い茎ですが、どうなることやら。

 来年の収穫になります、

 一度植えれば、後はほっといても毎年育つように書いてありましたが・・・?

 



 沖縄のニガウリです。

 三本だけ植えました。

 そんなに食べれないでしょうから。

 



 ミョウガです。

 これは小屋の周りに自生しているやつです。

 毎年今頃になると、勝手に育ってきます。

 



 葉キャベツです。

 かなり根が貧弱ですね。

 根きり虫にずいぶんやられました。

 茎にしがみついている、蝶の幼虫かな?

 



 私が冬まで生きていける野菜は、何とか確保できそうです。

 後は、ニワトリたちが、早く卵を産んでくれますように!

 川魚(特にドジョウ)がたくさん取れますように!

 

 

 
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6月28日は、「ゲバラ復活の日」(かな?)

6月28日は、「ゲバラ復活の日」

                                                        (2010・06・27記)

 我がクーバフアームのシンボルゲバラです。

 私は6月28日は、「ゲバラ復活の日」として、朝からゲバラを讃えた歌を聞くことにしています。



 チェ・ゲバラの讃歌、ラテン語で 「Hasta Siempre Comandante」 という曲です。

 この曲は、世界各国で、いろんな人たちが歌っています。

 キラパジュンたちがゲバラに捧げた曲が聞けるのがこちらの文化サイトです。

 ダウンロード自由です。



【ニコニコ動画】--Hasta Siempre, Comandante--



 この「復活の日」にちなんで、皆さんが疑問に思っておられるであろう10点を、「一問一答」形式にしてみました。

 なんせ、雨ばかりで、小屋に待機している、待ち時間が長いものだから・・・・?









 ①なぜ、「復活の日」と命名したの?



 それは、この日に、30年間も行方知れずであったチェ・ゲバラ遺体が、発見(発掘)されたからです。

 再び大衆の前に、公然と姿を現したのです。たとえ、骨だけとはいえ・・・。

 ゲバラはよみがえり、我がクーバフアームのシンボルとして、燦然(さんぜん)と輝いています。

 若干、宗教的だって?まあ、許してちょ!

 どこかのお国のような「個人崇拝」とは違う(と思う)から。

 だから、6月28日は、我がフアームでは、ゲバラの「第二の誕生日」と位置づけ、「ゲバラ復活の日」と命名したわけです。



 しかし、になる男だね!男が、男に惚れるねえ!

 あのジョンレノンですら「世界一、かっこいい男」と、言ったとか。



 

 



 ②ゲバラはなぜつかまり、誰に殺されたの?



 キューバ革命を成し遂げたゲバラは、いろいろ複雑な理由がありますが、カストロと相談の上で、

 新たな革命を求めてボリビアにおもむきました。

 今度サッカーで、日本と対戦する「パラグアイ」の隣国です。

 しかし、ボリビアではゲバラに批判的な親ソ蓮派ボリビア共産党の協力が得られず、

 カストロからの援助もとどこおり、

 また農民も革命に興味を持たず、孤立しました。

 その上、ボリビア政府軍は、元ナチスドイツの親衛隊の軍人を顧問にし、

 アメリカからの武器援助とグリーンベレーによる訓練をうけた「精鋭部隊」を持っていました。



 1967年10月8日、ゲバラら20名は、アンデス山中のチューロ渓谷で、

 ボリビア政府軍の襲撃を受け、ゲバラは捕まりました。



 



 7キロ離れたイゲラ村に連行され、小学校に収容されました。



 



 翌朝、ボリビア大統領は、捕虜にするのではなく、射殺の命令を出しました。

 当然、国際法違反です。

 政府軍兵士の軍曹に、左胸と首の根元を3発撃たれましたが、絶命せず、他の兵士に心臓を撃たれ、死亡しました。

 死後、兵士がいくら目を閉じようとしても、決して閉じませんでした。



 ③誰が、どうして、30年間も遺体を隠し続けたの?



 遺体はヘリコプターで、近くの町(バージエグランデ)に運ばれ、住民に「ゲリラのリーダが死んだ証拠」

 として見せ物にされました。

 写真でもわかるように、まるでキリストのようだったので、中には胸で十字をきる住民もいました。



 

 

 その後ボリビア政府は、ひそかにゲバラの遺体を運び、埋めたのです。

 埋めた地が、反政府の「聖地」になることを恐れ、「遺体は行方不明」という公式発表で、

 ボリビア政府は、30年間も世界にウソをつき続けました。



 ④どうやって、遺体をみつけたの?



 遺体の埋葬に立ち会った元兵士が、老い先が短いことから、「このままでは永遠に謎になる」

 として、埋葬場所を白状しました。

 大慌てのボリビア政府でしたが、いずれわかることだから、ということで、

 逆に観光名所にして外貨を稼ごうという姑息な判断で、発掘に全面協力したのです。

 それから2年間かけ、キューバとボリビアの合同調査隊により、ついに遺骨が発見されました。



 



 



 ⑤その遺体は、どうしたの?今、どこに安置されているの?



 遺骨は直ちにキューバに空輸され、ゲバラゆかりの地・サンタクララで国葬にされました。

 遺骨は、そこに建てられた彼の霊廟(れいびょう)に保存されています。



 



 



 ⑥ゲバラの家族は、どうしているの?



  1956年、最初の妻、イルダ・ガデアとの間に 長女イルディタが誕生しました。

  残念ながら、前妻イルダは1970年に、長女イルディタは1995年に他界しています。父親と同じ39歳のことでした。

  二番目の妻アレイダとの間には4人の子供がいます。



 



 60年代に撮影されたゲバラの家族。右から、アレイダ ちゃん、エルネスト くんをひざに乗せたHilda ちゃん、

 セリア ちゃんをひざに乗せたアレイダ夫人、カミロ くん。

 

 



 

 片時の時間を見つけて、ゲバラは子供たちと遊びました。

 ほとんどそんな時間はありませんでしたが・・。

 

 

 妻とのツーショット。

 



 次女のアレイダ(母親と同じ名前)は、父ゲバラと同じく医師になりました。

 アレルギー専門の小児科医です。

 2008年5月に来日し、各地で公演を行いました。

 広島も訪れています。



 



 妻のアレイダが、自伝を出版しました。そのときの記者会見です。

 日本でも『わが夫、チェ・ゲバラ』と、いうタイトルで出版されました。1900円です。

 



 



  2007年10月8日、父親エルネスト・チェ・ゲバラの遺骨が眠るサンタクララまで、

  首都ハバナからハーレー・ダビッドソンで向かうゲバラの末息子エルネスト

 





 ⑦どうして、髭(ひげ)を生やして、いつも葉巻をくわえているの?



 



 ゲリラたちは、ジャングルが生活の中心ですから、常に蚊やブヨに悩まされました。

 おまけに、風呂嫌いのゲバラですから。(まあ、風呂なんて入ることはないのかもしれませんが)

 きっと、常時、体中から汗が噴出していたことでしょう、蚊の好きなにおいをプンプンさせながら。

 だから、蚊取り線香代わりに、ハマキの煙で虫を退散させていたのです。

 喘息のゲバラにとっては、きつい選択だったでしょうね。



 ひげも同じ理由です。防虫ネットの代わりに、ひげを生やしていたのです。

 いつのまにか、これらがゲリラたちの、戦闘スタイルに定着していきました。



 ⑧日本に来たことがあるの?



 1959年7月15日、ゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本を訪れています。

 トヨタ自動車工場や新三菱重工、久保田鉄工堺工場、等々を見学しました。

 通商のために帝国ホテルで、池田勇人通産相15分間のみの会談を行いました。

 まるで池田は、キューバを見下したような、立ち話のような会談でした。



 7月24日に大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くない事を知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、

 予定を変更して全日空機で岩国空港に飛びました。

 広島県庁職員が案内する下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、

 原爆資料館原爆病院を訪れました。



 



 娘のアレイダ・ゲバラも、2008年5月に、原爆死没者慰霊碑を訪れています。



 



 ゲバラの広島行に関しては、宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かったというもありますが、

 この説を裏付ける確たる証拠はなく、当時の通訳であった広島県外事課見口健蔵氏が、

 飛行機での公式の来訪を語っているほか、1972年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っています。



 このとき、中国新聞の記者であった林立雄氏が単独取材したときに、

 「なぜ日本人はアメリカに対して、原爆投下の責任を問わないのか」とゲバラは言ったそうです。



 ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、

 キューバでは現在でも、初等教育広島と長崎への原爆投下をとりあげています。

 だから、キューバで「8月6日と9日は何の日か、知っている?」と聞けば、即座に正答が帰ってきます。

 日本の子供ですら、まともな回答が返ってこないというのに・・・・。

 



 ⑨ゲバラの残した「言葉」で、印象的なのは、なにですか?



 ゲバラの有名な言葉を集め、編集した本『元気がでる ゲバラ語録』が出版されています。

 関心のある人は、是非それを読んでください。



 

 今の情勢の中では、次の言葉が好きですね。



 「いずれにしても、僕は銃をとるつもりだ。

 正義を勝ち取るための武装だ。

 ヤンキーどもに、他人の家に土足で勝手に入れないことをわからせるために闘うのだ。

                                                1954 グアテマラにて。」



⑩どうして、クーバフアームのシンボルなの?



 言葉にすると、白々しくなります。無理に理屈をこねているようで。

 一言で表現すれば、ゲバラの「ピュアな精神」に惚れた、とでもいいましょうか。



 革命のリーダでありながら、何事においても、自分から率先して行動し、どんな苦労をもいとわなかった。

 喘息でありながら、最後の最後までに頼らず、自分の体を痛め、鍛えぬき、強靭な精神力を身につけた。

 私と同じく、放浪の旅が好きだった。

 「世界の憲兵」をうぬぼれるアメリカに、世界中の資源を略奪するアメリカに、

 途上国の革命を弾圧するアメリカに、化石燃料を食い荒らすアメリカに、

 侵略国家アメリカに、それこそどんな犠牲をもいとわずに、家族まで犠牲にして、徹底して、戦った。



 理屈ではないのです。生き様が、好きなのです。

 不撓不屈の精神を持ったゲバラを心の支えにして、今後もクーバフアームを切り開いていきたい。

 だから、ゲバラはクーバフアームのシンボルなのです。



 



 



 



 

 



 

 

 

 

「吹田事件」58周年と、私の誕生日(6月25日)

今日は「吹田騒擾(ソウジョウ)事件」の58周年

そして私の58回目の誕生日 

                                                             (2010・06・25記)

 



 今日は、私の58回目の誕生日です。(1952.06.25生誕)

 44歳の4月4日に、「心筋梗塞」で倒れてから、はや14年以上がたちました。

 まだ「幸運の女神」は、健在のようです。

 「私」から「私自身」に、おめでとう、といってあげましょう。



 昨日、姪から、一日早い「誕生日のプレゼント」をいただきました。

 チェ・ゲバラの図柄のバンダナです。

 さすが私のことをよく理解してくれてる。ありがとう。

 頭に巻くのはもったいないので、しばらくはクーバフアームの事務所の貴賓席に、飾っておきます。

 

 



 この日を迎えると、決まって私は、二つの歴史的事件が頭の中に浮かびます。



 ひとつは、1950年6月25日のことです。

 「朝鮮戦争」が勃発した日です。



 第二次世界大戦後、アメリカのプッシュで成立した大韓民国(韓国)と、

 ソ蓮のプッシュで成立した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で、

 朝鮮半島の主権を巡って、「戦争」になりました。



 1953年7月27日の「休戦協定」まで、全土が戦場となり、

 家族や親戚同士が敵と味方に別れ、殺しあうという、悲惨な結果になりました。

 今でも国家は二つに分断されたままです。

 

 歴史にイフという言葉は禁物ですが、日本がもし南北に分断されていたら、と思うと

 (実際に、その可能性は大きかった)

 我が肉親同士が、親戚同士が、友人・知人同士が、あい争う羽目になっていたはずです。

 

 韓国側にはアメリカイギリスオーストラリア、ベルギーやタイ王国などが、そして後には日本が、

 北朝鮮側には中国ソ蓮が支援国になりました。



 最近のマスコミは、北朝鮮は「悪魔だ」方式の、誇大宣伝、デマ宣伝がまかり通っています。

 「天安艦沈没事件」では、戦争当事国の一方である韓国側に「味方」している国のみで構成された

 「調査団」の「報告書」を鵜呑みにした、「北憎し」のキャンペーンを行っています。

 この「報告書」は随所に、疑問点が噴出しており、決して鵜呑みにできない、というのが心ある人々の

 共通の認識です。



 一応「停戦」が続いているものの、今でも「戦争状態」であることには、違いがありません。

 この「停戦」を破ろうとする、マスコミや韓国政府の「北挑発」の危険な動きには、惑わされてはなりません。

 私は、この「停戦」以前の、「実戦」が行われている真っ最中に誕生したのです。



 もうひとつは、1952年6月25日「吹田騒擾事件」です。

 特に、この事件の現場は、私の大阪の家のごく近辺での出来事なので、関心が非常に強いのです。

 日常的に、それこそ毎日のように「事件現場」を、通っていました。

 また、私が産湯を浴びていた、まさにその時刻の出来事なのです。



 朝鮮戦争と戦争協力に反対して、労働者・学生・在日朝鮮人が、

 豊中の阪大キャンパスでの大規模な集会と、その後の徹夜での反戦デモを貫徹しましたが、

 それが「騒擾罪」(いまでいう騒乱罪)として権力によってでっち上げられました

 裁判では、騒擾罪は認められずに、勝利しました。



 少し長文ですが、フリー百科辞典「ウィキペディア」から、そのまま事件の概要を引用します。

 

 1952 年6月24日夕方、大阪府豊中市にある大阪大学豊中キャンパスで「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が大阪府学生自治会連合によって開催された。学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人(参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加した。集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などのアピールが採択された。集会終了後、米軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場までデモを行うことになった。集会参加者は西国街道経由で箕面へ向かい、吹田に南下する「山越部隊」と阪急宝塚本線石橋駅から臨時列車を動かし、服部駅から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動した。人数は山越部隊の方が多かった。



 山越部隊は警察予備隊豊中通信所の横を通り、午前2時ごろ三島郡豊川村に到着した。ここで山越部隊は「ファシスト打倒」と称して笹川良一宅に投石したり、棒きれで玄関の扉を損傷させている。笹川良一本人は留守で、けが人はなかった。休憩後、山越部隊は南下して国鉄労働組合吹田支部の中野新太郎邸に立ち寄り、庭で竹槍を振り回したり障子を破ったりしたが、けが人はなかった。



 一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入ったが、最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要した。駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになった。電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の服部駅で全員が下車し、旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、6 月25日午前5時ごろ三島郡山田村(現吹田市山田南)で山越部隊との合流を果たした。この間、警察は電車部隊が梅田駅に向かうと予想し、梅田で警官隊を待機させていたが、電車部隊が服部駅で下車したため行方を見失い、山越部隊についても電車部隊の対応をしている間に見失っていた。



 合流後、デモ隊は南下し須佐之男命神社に到着した。神社前には吹田市警察や国家地方警察の警官隊が警備線を張っていたが、警察指揮者との交渉をデモ隊が受け入れなかったため、警察隊は警備線を解き、デモ隊に道を譲った。大阪地方検察庁は、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、暴力で警備線を突破したと主張して騒乱罪を適用した。しかし証拠写真[1]や警察指揮者の証言からデモ隊が暴徒化した事実がないことが明らかになった。また合法的なデモに警察が警備線を張る法的根拠はなかった。このため後の裁判で被告人全員が騒擾罪無罪となることになった。



 須佐之男命神社から南下したデモ隊は、午前6時ごろ国鉄東海道本線岸辺駅経由で吹田操車場に入った。デモ隊は操車場内で「戦争反対」「軍用臨時列車を止めろ」などのシュプレヒコールをあげながらデモを行ったが、軍用列車は事前に移動させられていた。吹田操車場から出たデモ隊は吹田駅に向かった。



 これらデモ隊の行動について、検察は暴徒そのものだとしたが、デモを見ていた人たちは「うさぎ狩りのようでした」などという証言もあった[2]。



 その途中、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負った。また午前7時ごろ茨木市警察のウィーポン車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げて、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負った。この後、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石した[3]。



 デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となった。吹田駅の助役は裁判時に「デモ隊が順調に乗ってくれたので、うまいこといきましたなと駅長とも話していた」[4]と証言している。解散したデモ参加者らは大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとした。そこに約30人の警察官が追いつき、デモ隊と衝突した。これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出た。事件では200人を超える大量逮捕が行われ、111人が騒擾罪で起訴された(被告人の1人が裁判中に死去、1人は韓国に強制送還され行方不明となったため最終的に109人)。



 検察は、警察がピストルによって重傷を負わせたデモ参加者4人を起訴していない。列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市も承認している[5]。なお検察は「拳銃発射は暴徒のうちにもこれを行ったものがあり、これら負傷のすべてが警察官の発射した」[6]ものとは言い難いと主張していたが、証拠がなく現場にいた警察官、第三者証人だれも証言していないため、根拠が乏しいとされ裁判で認められなかった。







 この事件については、『大阪で闘った朝鮮戦争』(西村秀樹著)が、一番おもしろかったですね。

 これまで明らかにされてこなかった、関係者からの「新事実の証言」が随所に書かれており、

 機会があれば是非一読してください。



 



 なにはともあれ、今でも朝鮮半島は1950年来の「戦争状態」にある事実、

 在日米軍は、そのときから今日まで、日本を出撃の前進基地にしている事実、

 について、もう一度、6月25日を記念して、頭に刻み込んでください。



 なお、「吹田騒擾事件」には、在日朝鮮人の詩人・金時鐘(キム・シジヨン)がリーダーの一員として

 参加していました。

 金時鐘は、現在の大阪城公園にあった「大阪造幣廠」を舞台に、金属片を集めるアパッチ族のモデル

 として有名です。在日作家、梁石日(ヤン・ソギル)『夜を賭けて』を映画化して、山本太郎が、彼を演じています。



 



 また、開高健『日本三文オペラ』で、金時鐘をモデルに、

 アパッチ族を小説にしています。



 

 小松左京『日本アパッチ族』で、同様に扱っています。



 



 この三冊は、歴史的事実としてはかなりショッキングなことをあつかっていますが、

 とても痛快で面白く、時の権力と対峙していた在日朝鮮人の心意気が、見事に描かれています。

 文庫本ですので、是非、読んでみてください。

 古本で、100円前後です。私は『日本三文オペラ』を50円で買いました。

アジサイの美しさを、堪能してください。

気分転換に、アジサイの鑑賞を



 我がクーバフアームのまわりのアジサイです。

 種類がいろいろあります。

 今日は言葉すくなく、写真だけで、気分転換を!











































































 この2枚は、バナナの実です。









なんかおかしいね。「野球賭博」報道は。

「野球賭博」報道に思うこと



 連日、「野球賭博」と、「消費税」がセンセーショナルに取り上げられています。

 あれほど鳩山攻撃の材料にしていた「沖縄問題」は、一体どこへ消えたのでしょうか?

 鳩山と小沢を引きずりおろしたから、一見落着とでも言うのでしょうか?

 マスコミの「情報操作」には、ほとほと関心しますね。

 「沖縄問題」は、何も解決していません。これからが、本番ですよ。

 

 さて、多少、食傷気味の「野球賭博」報道について、二言三言、雑感を述べます。



 山奥にいると、賭博ギャンブルとは無縁の世界にいることを、ヒシヒシと感じます。

 パチンコですら、峠を越えて、隣町まで行かねばなりませんから。

 まあ、ギャンブル費などは、全然ありませんから、それでいいんですけどね、ハハハ・・・

 

 雑感その一。



 四面楚歌の武蔵川理事長、もっと気張れよ!がんばれよ!

 57代横綱、三重ノ海 剛司

 名前が表しているように、三重県の松阪出身

 郷土の誇りではないか!!

 地味な性格、でも根性はある。

 幼少からの、差別と極貧を乗り越え、横綱に、さらには理事長に。

 そのときの苦労をおもいだせば、総スカンをくらっている今の苦境なんて、どうってことない。

 決してでしゃばらないところが、いい。私は大フアンだ。

 「のたり松太郎」(ちばてつや作)の田中清そっくりだね。

 ただ田中清は、顔だけは、大ちゃんこと、朝潮太郎に酷似していたけども・・・。



 



 



 



 雑感その二。



 したり顔で「賭博批判」しているテレビのコメンテイターを見ていると、腹がたつ。

 パチンコに花札、賭け麻雀に賭けゴルフ、等々。コメンテイターでも、1回はやっているはず。

 警官や検察官、裁判官、官僚、教師、坊主、宣教師・・・。皆、心に覚えがあるだろう。

 

 賭け麻雀なんて、常識の範疇だ。雀荘で、賭けないような、奇特な客がいたらお目にかかりたい。

 「一か八かの、まぐれ当たり狙いの行為」をバクチと呼ぶなら、株や保険なんて、典型的なバクチだ。



 もともと賭博は、ときの権力者が考え出した、人間の弱みに付け込んでの、「金巻上げ術」ではないか。

 それを問題にしないで、末端の参加者だけを、面白おかしく、スキャンダラスに取り上げることに、腹が立つ

 このように言う、私の方にあなたは腹をたてるかい?

 

 権力者が仕切る「公営賭博」。これは、一体何なんだ!

 競馬、競輪、競艇、宝くじ、さらにはサッカーくじ。

 お上が許した賭博だけは許されるが、それ以外は犯罪扱いかい?

 大阪の橋下知事なんて、カジノを大阪に誘致したいなんて、ほざいているぞ。



 雑感その三。



 胴元が「暴力団」らしいから、ダメなのか。暴力団以外ならいいのか?

 宝くじ胴元は、全国の都道府県と政令指定都市。

 売り上げの40%以上が、胴元に転がり込む。

 もともとは、太平洋戦争を続けるため、民衆から金を巻き上げるために権力者が考え出したもの。

 競馬は、明治時代に、軍の馬を育てるために考え出されたもの。

 競艇は、戦後の復興資金を、民衆から巻き上げるために考え出されたもの。



 これこそ、人間の弱みに付け込んだ、金のない大衆から、ごっそり巻き上げる、

 消費税以上にあくどい徴税ではないか。

 「国が予算をくれへんから、代わりに民衆から巻上げたる」ということか!



 宝くじは、連番を3000円購入して、2700円持っていかれる。億円があたる確率は、限りなくゼロ。馬鹿にすな!

 巻き上げたこの金、一体何に使っているんや?

 個々人を批判する前に、暴力団を批判する前に、まずこの世界一の売り上げ(GNPの6%程度)

 「公営賭博」の実態を批判しろ!

 国民を、ギャンブルに引き釣り込めば引き釣り込むほど、国や自治体のふところが潤う、なんておかしいだろう。

 このままでは、この国は「公営ギャンブル」で滅ぶぞ。

 その上で、本気で暴力団を批判しろ。どうせ、お茶を濁すだろうが・・・。

 暴力団とつるんでいる警察なんて、絶対に信用するな。



 雑感その4。 



 圧倒的少数派の意見だろうが、名古屋場所を安易に中止すべきではない。

 正義感面をして、評論家的に「中止すべき」と、のたまう人に、腹が立つ。

 どれだけ多くの人や家族が、名古屋場所関連で、生計を立てていると思うのか?

 この厳しいご時世に、安易に中止して、大勢の「食と生活、仕事」を奪うな!



 場所を中止してごまかすのではなく、問題点は問題点として包み隠さずに公開し、

 その解決の方途を、広く国民の前に提起すべし。

 この機会を好機としてとらえ、封建的な相撲界に「革命」を起こせ。



 雑感その5。



 武蔵川理事長には、次のことを希望する。



 ①暴力団がらみの、野球賭博の参加者の氏名を公表すること。(未成年は考慮)

  理事会の中ですら非公表というのは、いかにも閉鎖的だ。隠したらあかん。



 ②その上で、協会の規定に照らして、厳罰に処分すればいい。

  その結果、たとえ、外国人力士が多数派の場所になったとしても、すでに国際的競技である以上仕方がない。



 ③だから「国技」と言い切るのは、いい加減やめてほしい。

  政府は「国技」なんて、一度も言っていない。

  常に「国技と称される相撲・・・・・」と、無難な言い回しで、発言している。

  「相撲協会」が定款で「国技」と称しているのを、政府が公認したから「国技」だ、というのは、いかにも詐欺的だ。

  「国技館」なんて、紛らわしい名前をつけるから、国民が「国技」だと誤解する。



 ④無理に太らすスポーツなんて、非人間的だ。体重、身長制限なんてやめたらどうだ。

  モンゴル相撲のように、体の大きさに関係なく、誰でもが、土俵に上がれる大相撲にしてほしい。



 ⑤今の高い席料を、野球なみに思いっきり下げること。



  

 好き放題に書き連ねました。私の単なる日記です。

 元横綱三重ノ海、がんばれ!

 あなたでしか、相撲界に「革命」を起こせない。

 

 

 

 

 

 



 



 









6月23日は沖縄デー。忘れないで!

6月23日は、「慰霊の日」であり「反安保の日」です。

                                                      (2010・06・21記)

 6月23日は、我が息子のyuudai君の誕生日です。

 おめでとう。

 でも、この日はもっと、はるかに重要な日なのです。

 その記念すべき日に誕生したことを、誇りにしてください。



 第一に、沖縄の人々は、この日を公休日として、沖縄戦で亡くなった人を「慰霊する日」なのです。

 沖縄のカレンダーだけ、休みの赤印がついています。学校も休みです。

 毎年、沖縄県主催の追悼式が、沖縄の「平和祈念公園」で行われます。

 その日の前後には、各種の平和団体等が、さまざまな「平和のための取り組み」を行います。

 本土でも、いろんな取り組みが行われるようです。



 なぜ、6月23日なのかって?

 それはね、太平洋戦争当時、沖縄の守備軍(第32軍)司令官の牛島満・中将と、長勇(チョウイサム)参謀長

 自決した日なんだよね。

 これで、組織的な戦闘が終結した日として、後に「慰霊の日」と定めたようだね。

 今年で65年目になります。

 自決したところには「黎明之塔」が建立されています。

 軍国主義の象徴みたいな塔です。



 ちなみに私も、1972年の沖縄サイクリングツアー「記念写真」を撮りました。

 新左翼の手による「落書き」の跡が、まだ生々しく残っています。

 隣にいるのは、私が大阪で家庭教師をやっていたときの教え子です。

 中学生でありながら、沖縄からはるばる大阪まで、勉強のため親元を離れ越境していました。

 その縁で、旅の途中、彼の実家にお世話になりました。

 もうすでに、50歳を越えている計算になります。



 



 この日を「慰霊の日」にするには、さまざまな議論がありました。

 なんで、司令官が自決した日をえらんだの?

 あまりにも軍隊中心ではないの?等々。



 確かに司令官が死んでからも、「沖縄戦」は続いていました。

 「鬼畜米兵」とたたき込まれた住民は、捕虜になることも許されず、

 日本軍に手渡された手榴弾での集団自決、がけからの身投、毒薬による自殺、等々

 9月7日の正式な降伏文書の締結まで、住民の悲惨な現状が続いていました。

 結局、沖縄の住民の、4人に一人が犠牲になりました。



 そのときの状況を、にして、世界に告発した人がおられます。

 すでに他界されましたが、丸木位里、丸木俊のご夫妻です。

 夫妻が建設された「丸木美術館」は、今も心ある人々の手で、運営され続けています。

 その美術館で「沖縄戦終結から65年 追悼企画」が現在、開催されており、

 夫妻の「沖縄戦の図」をはじめ、沖縄出身の画家16人の作品も展示されています。(7月10日まで)

 埼玉県東松山市なので、少し遠いのですが、機会があれば是非立ち寄ってください。

 丸木夫妻については、またふれる機会があると思いますので、

 ここでは丸木俊さんの自伝『女絵かきの誕生』だけ、写真でのみ紹介します。

 面白いですよ。



 



 沖縄戦の最大の教訓は、「軍隊は決して住民を守らない」ということでした。

 別の言葉でいえば「沖縄は捨て石」にされていたということです。

 沖縄住民は、日本軍の盾にされたのです。



 今こそ、この教訓を生かすべきときです。

 在日米軍は、日本を守るためのものでは、絶対にありません。絶対にですよ。

 イランやイラク、アフガニスタン、北朝鮮に出撃する「前線基地」なのです。



 それなのに民主党政権は、新たな「日米共同声明」を締結し、

 再び沖縄を「捨て石」にしようとしているのです。

 まるで自民党政権の亡霊が取り付いたかのようです。

 いや、自民党ですら唖然とする、アメリカへの追従とでも言いましょうか・・・・。

 こんな民主党政権を、あなたは支持できますか?もはや、対決しか・・・・。

 

 第二に、6月23日は、「新安保条約」が発効(批准)した日です。

 かってこの日は「反安保デー」と名づけられていました。

 今の沖縄に「在日米軍基地」が居座っているのも、この安保条約があるからです。



 私が大学1回生になって、まだ何もわからないままに、5月の15日の「沖縄返還デー」

 と、6月23日の「反安保デー」の集会とデモに狩り出されたのは、今でもよく覚えています。

 精鋭の機動隊に、さんざんどつかれましたから。まるでボコボコに。



 鳩山は、この条約に基づく安保体制をあいまいにしようとして、逆に圧しつぶされたのです。

 ああ、自民党と官僚、経済界、マスコミの一体となった総権力は、てごわきかな。

 管はこの安保体制に盾突くのか、それとも媚びを売るのか?

 後者であることが、明白になっていますね。

 管の民主党政権との対決は、今後も続くでしょう。いや、続けなければなりません。



 いずれにしろ、6月23日を、沖縄を再び「捨て石」にさせない、

 「安保体制の打破」をめざす、新たな決意の日
として提起させていただきます。

 

 

ヘアーデザイナーのJUNさんが来園

ヘアーデザイナーのJUNさんが来園。

 阿曽温泉に招待




 大阪のヘアデザイナーのJUNさんが来園しました。

 大阪市の福島にあるMjuka(ミューカ)という美容室を運営しています。

 ブログも開設しているので、見てください。



 あいにく梅雨入りの初日で、一日中雨・雨・雨でした。

 長靴と傘という、農婦いでたちをしてもらい、クーバフアームを案内しました。

 残念ながら、その記念すべきいでたちの写真はありません。



 唯一の写真が、JUNさんに取り付いた、血を吸うヒルです。

 今年の初物です。

 尺取虫ナメクジをかけあわせたような生き物で、

 これに血を吸われると、一時間は出血が止まりません。

 「あ、かゆいなあ」と思った時には、もう真っ赤に血で染まっています。

 気色悪いでしょう?



 JUNさんは、咬まれる直前に気づいたようで、間一髪セーフでした。

 を振りかけて、退治しました。

 ナメクジ同様に、浸透圧の関係で、しぼんで、死にます。



 



 

 

 雨の中、大阪からはるばるの来園ということで、我が大紀町にある

 「阿曽温泉」に招待し、

 「あじさいの道」を案内しました。

 

  廃校となった「小学校の校舎」を温泉施設に再利用

 

 「阿曽温泉」というのは、旧阿曽小学校の校舎を、そのまま温泉施設に再利用したものです。

 今、流行(はやり)の、リサイクルですね。

 熊本の阿蘇山の温泉とは、なんら関係がありません。念のために。



 入浴料は大人500円です。(65歳以上は400円、3歳以下は無料、小学6年生までは300円)

 大紀町が経営しているので、それなりに安価で、良心的です。

 近くに自然に湧き出ている温泉(27.3度)があり、それを引いてきて、沸かしています。

 まあ、深くボーリングすれば、大体温泉は出るもんですが、

 自然に湧き出ている温泉というのは、最近では珍しいですね。

 

 ここが入り口です。学校の玄関でした。

 



 これが受付です。事務兼作業人が、男女ひとりずつおられました。

 



 教室を改造して、湯船にしてあります。

 この日は、昼1時ごろでしたので、男風呂には、私ともうひとりだけでした。

 20人は無理なく入れるでしょうか。他の客が奥のサウナに入っているすきに、パチリパチリと。

 少し熱めで、なかなかいい湯でした。



  



  



 温泉である証拠に、大理石の湯船の縁が、うす茶色の「湯の華」で固まっています。

 外にある「足湯」で、源泉をそのまま利用したら、

 パイプが詰まって、「1年でだめになった」と、

 湯船の温度を測りにきた、男の事務員が苦笑いしていました。



 



 脱衣室もかなり広く、よくあるような100円玉を入れてのロッカーではなく、小銭は不要でした。



 



 玄関の受付から、湯船のある方向を見たところです。

 学校の教室の前の、廊下そのものです。



 



 廊下の壁側には、地元の人が描いた、さまざまなが飾ってあります。

 



 また、盆栽も展示されていました。

 



 

 

 入浴後はここで休みます。

 簡単な食事や飲み物も注文できます。弁当も予約すればできるようです。

 その弁当は、いまや全国的にも有名になった「相可高校食物調理科」が監修したものです。



 教室そのままの休憩室ですね。

 黒板も当時のままです。

 ここで何か講演会でもやればいいかもね?無料の入浴券つきのを。

 当時の教室は、和室も併合されていたようです。



 



 この和室にはテレビがあり、自由に見れます。

 私たちもここで大内山牛乳をいただきました。

 寝転べます。

 



 その休憩室に貼られてあったのが、このポスターです。

 どこかで見たことがことがあるような・・・。

 そうだ、眉毛が太くて、ズングリムックリのこの男は、

 私の高校の2年後輩小倉君でした。

 このとぼけた、オヤジ顔は、高校生時代と変わらないようです。



 



 三重限定のソフトキャンデーが売られていました。

 牛乳パックに入っています。500円でした。

 



 「あじさいの道」はほぼ壊滅状態でした。



 温泉浴のあとで、近くにある「あじさいの道」に行きました。

 残念なことに、去年から鹿に食い荒らされた後遺症で、ほぼ壊滅状態でした。

 どこを見ても、あじさいがありません。二人で、「何もあらへんな」と、ぼやきっぱなしでした。

 JUNさんには、申し訳ないことをしました。アジサイが楽しみだったようですが。

 どうも再起不能ともいわれているようです。至極残念!憎き鹿め!



 あの2.5キロに1万株のあじさいが咲き乱れていた、数年前の景色が脳裏に浮かびます。



 仕方がないので、近くの「風穴」を探索しました。

 「風穴」というのは、長年の水の浸食で、石灰岩が作り出した天然の洞窟です。

 山口県のカルスト地形のミニ版です。

 中はかなり広く、ひんやりしています。自動的に電気が燈る仕組みになっていました。

 暑い夏の避暑に、絶好の場所です。

 

 



 



 



 その近くに「八重谷山」があります。

 この山は、古代に海底より浮上した、石灰岩の山です。

 八つの谷がありますが、どの谷にも水は流れていません。

 湧き水が噴出しているところが、「八重谷湧水」です。

 この水は、良質で、飲み水にも利用されています。

 誰でも飲めるように、駐車場まで引水してあります。

 遠くからも、ポリタンクをもって汲みに来ています。

 

 



 



 



 「八重谷湧水」に行くまでの道のりは、森林浴を楽しめます。

 JUNさんは、映画のトトロに出てくる森みたいだと。

 クーバフアームにこられた折には、ぜひトトロの森を探索してください。



 



 



 

 

うごめき出した昆虫たち(その1)

うごめき出した昆虫たち(その1)



 いよいよ、梅雨と夏が近づいてきました。

 4月に霜がおりていたことは、ウソのような今日の暑さです。

 この時期になると、いろんな昆虫がクーバフアームのまわりに出没します。



 今回はそのうち、4種類を紹介します。

 

 (1)ムネアカオオアリ



 最近わが小屋のまわりに、巨大なアリが出没しています。

 時丸君が捕まえてくれて、彼の父ちゃんに携帯電話の写メールで聞いたところ、

 「ムネアカオオアリ」だと教えてくれました。どうも女王アリのようです。

 体長は2センチぐらいあります。

 全体が真っ黒ですが、の部分のみがアカ褐色です。

 姪がブログへのコメントで、「飼育したら」とすすめてきますが、あまり気乗りしません。



 



 



 別の、働きアリらしき写真も撮りました。

 これは1センチぐらいです。

 食事を作っている横を、這い回るので、「油で揚げて、食べたろかな」と思ったりもします。

 アブラムシの出す甘い汁が好物のようです。

 だから、私の天敵のアブラムシとは仲がいいのです。

 敵の仲間、つまり私の敵ということです。



 聞くところ、マニアの間では、女王アリは一匹7000円ぐらいで取引されているとか・・・・。

 これで商売するのもいいかもね。



 



 



 (2)スズメバチ



 夕方、小屋の中でブンブンと音がするので、覗いてみると。

 大きなスズメバチがなにやら物色しています。

 これに刺されたら「やばい」ので、殺虫剤をふりかけました。

 先ほども、フアームのそばで、巨大なスズメバチが飛んでいました。

 どうやら、近くにがあるようです。



 もだえ苦しんでいます。この殺虫剤はこわいねえ。イチコロです。

 

 



 

 

 我が小屋の中には、すでに放棄された「巣」が飾ってあります。

 これを見に来たのでしょうか?

 ハチは、何か神秘的なところがありますね。

 どうして、このような巣をつくれるのでしょうか?

 

 



 毎年30人前後が、刺されてショック死しています。

 強烈な毒をもっているのです。

 オスは針を持たないので、刺す真似をするだけです。

 ついでに言えば、オスは働きません

 メス「働き蜂」なのです。

 オスは何してんのかって?それはね、koubiだけ。ははは・・・。

 

 時丸君は、このハチを見たら、脱兎のごとく逃げます。



 この時期、フアームに来る人は、香水黒い服はやめたほうがいいよ。

 スズメバチを、呼び込むようなものだから。

 缶ビールの飲みかけは、かならずふたをしておくことだね。

 中にハチがはいっていることがあるから。

 へたをしたら、口の中を刺されるで。



(3)クマバチ



 時丸君が「いいハチ」だと評するクマバチです。

 たしかに、スズメバチに比べたら、天と地の差があります。

 刺されても、死ぬことはまずありません。



 ズングリムックリの姿は、熊のプーさん見たいです。

 飛ぶ音だけは、強烈です。ブーン、ブーンと遠くからでも聞こえます。

 性格は、温厚です。

 飛べない体型なのに、なぜ飛べるのだろう?と、長い間、専門家の間で疑問になっていました。

 でもそれも、なんとかかんとか・・という数式(?)で解明されたようです?

 

 オスには、変な趣味(趣向)があるようです。

 他の昆虫が近づくと、追い掛け回して、メスであるか否かを確かめるというのです。

 確かめてどうするのかは、知りませんが・・・。



 



 でも、我がフアームにとっては、厄介ものです。

 柱のあちらこちらに穴を開けて、巣を作るのです。

 木の粉がやけに落ちているな、と気づいたときは、ごらんのように柱が穴だらけなのです。

 まあ、見事なできばえですけどね。



 



 



 



 (4)ムカデ(百足)



 私が寝ていたフトンの横に、息絶え絶えに、横たわっていました。

 寝ている間に、私が押しつぶしたのでしょうか。

 スマンスマン。

 写真は、まだ生きていますが、仰向けになって、もだえているところです。

 でも刺したら、承知せんで。そのときは、。油に漬けて、民間薬にしてまうぞ。

 食べるんやったら、私の肉ではなく、ゴキブリでも食べとき。

 一度刺されたことがあるが、かなり刺激的でしたね。一日中、痛みをこらえました。

 伊達政宗のいとこが、兜(かぶと)にムカデを描いていたことは、かなり有名です。

 「決して、後に退かない」のが、いいみたいです。

 退かないのではなく、退けないのだと、思いますが・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月14日はゲバラの生誕日

6月14日はゲバラの生誕日



 クーバフアームキューバ(Cuba クーバ)は、切っても切れない間柄。

 キューバといえば、ゲバラカストロ

 だから、クーバフアームのシンボルは、実はゲバラなのです。

 「クーバの湯」(半ば露天風呂、私しか入らない。)では、常設のゲバラの写真展を行っています?



 さて6月25日我輩の誕生日です。

 6月23日は、ダンスをやっている息子(yuudai)の誕生日です。

 そして6月14日ゲバラの誕生日です。(1928年生)

 同時に祝おうかなあ・・・。三重の山奥で・・・。焼酎のグラスを天にかざして・・・。

 さらに、ゲバラの遺骨が掘り出されたのが1997年6月28日です。

 



 6月は、いろいろと記念すべき日が多いなあ?



 右写真はゲバラ一歳の頃です。



  これは私の小学4年生の時です。

  



  私の高校生時代です。

  



 親父ゲバラは、同じ学年です。

 ゲバラが生きていれば、親父と同じ年代だと思うと、なんか、考えてしまいますね。

 ゲバラの活動は、はるか昔のことのように思っていたけれど、まだ最近の出来事なんだ。



 ゲバラが殺されたのが、1967年10月。私が中学3年生の時。 

 39歳だったから、生きてれば、81歳。現役でもおかしくはないね。



 この写真は、殺されたあと、公開された時のもの。

 



 殺されてから30年たって、ついに発掘された遺骨。

 



 

 



 いまだに中南米をはじめ第三世界では、カリスマ的に人気があるそうだ。

 埋葬されていたボリビアのイゲラでは、キリストと同等の扱いだ。

 アルゼンチン出身だから、マラドーナなどアルゼンチンのサッカー選手はみな肩にゲバラの刺青を彫っている。

 日本でも、サッカーの浦和レッズが、ゲバラの横断幕を掲げている。



 どうしてこれほどまで人気があるのか。

 思想とは関係なしに、「かっこいい」「ぶれない」「ピュア」なのが、人気の秘密のようだ。

 確かにカッコイイ。

 ジョン・レノンが、「世界で一番カッコいい男」とほめたたえたのも、うなづける。

 若者はゲバラのTシャツを、今も買い求めている。



 今の時代、「ぶれない」のが、キーワードかも。

 「ぶれない政権」「ぶれない首相」・・・・。



 



 



 

 



 ゲバラの生い立ちを、簡単にまとめた私のメモです。

 長文ですので、暇で、興味のある人は通読してみてください。

 



チェ・ゲバラの革命的でピュアな生き様



  2歳で重い喘息に



 1928年、6月14日、ゲバラは5人兄弟の長男として、アルゼンチン(キューバではない!)の裕福な家庭に生まれた。

 建築技師であった父は、いろんな事業に手をだし、家計は不安定だった。

 両親ともラデイカルな思想の持ち主であり、家は本であふれ、兄弟はみな冒険心に富み、知識欲にあふれた人間

 に成長した。

 ゲバラは2歳のときに重い喘息を発症した。この病気が生涯つきまとった。

 少年時代のゲバラは、喘息にもかかわらず、ラグビーなどのスポーツに熱中した。

 だが冷たい水は嫌った。喘息の発作がおきるからだ。

 生涯、風呂とシャワーを避けたのは、これが理由である。

 チェスの名手でもあった。



 

 

 文学好きの母の影響もあり、読書にも熱中した。

 ボードレールがお気に入りだった。

 喘息を自分で克服しようと、強じんな努力を重ね、並外れた意志力と目的意識が自然に身についた。

 喘息発作で、登校できない期間が長くあったが、成績は優秀で、知識の広さは群を抜いていた。

 数学と考古学が得意であった。



 1946年、ブエノスアイレス大学に入学した。

 1年次では工学を学んだが、2年次で医学に転じた。

 相変わらず冒険心は旺盛で、1950年、原付自転車でアルゼンチン3000マイルの旅に出た。



  放浪の旅に出発



 1951年(私が生まれる前年)、大学を1年休学し、先輩のアルベルト・グラナダとバイク「ポデローサ2号」で南アメリカの旅に出た。

 途中でバイクが故障したので、ヒッチハイクをした。

 この旅は、その後のゲバラの人生を大きく左右するものとなった。

 チリでは、銅山で働く労働者、特にインデイオが不当な扱いを受け、搾取され、悲惨そのものである現状に

 強い衝撃を受けた。共産主義者のチリ人労働者と友達になった。

 ペルーでは、学生でありながら臨床医として、ハンセン氏病療養所で働き、インデイオたちと交流を深めた。

 次に渡ったコロンビアは、内戦で疲弊していた。ブラジルを経て、ベネズエラに到着した。

 ここで旅は終わる。

 (詳しくは映画、「モーターサイクル・ダイアリーズ」を見てください!)。



 先輩アルベルトはここで病院勤めをするが、

 ゲバラは医学部卒業試験のため、ブエノスアイレスに戻った。

 「アレルギー疾患について」という論文を発表し、1953年医師の資格を得た。



医師から革命の戦士に



 当時のアルゼンチは独裁政権で、ゲバラは軍医強制徴募を避けるために、d

 再びラテンアメリア再訪の旅に出た。

 祖国からの、永遠の脱出となった(1953.7)。

 このときキューバでは、カストロのひきいる「革命的学生グループ」がモンカダ兵舎を襲撃した。

 これは失敗であった。

 メンバー113人のうち61人が殺され、リーダのカストロと弟のラウル(現在のキューバ首相)は投獄された。



 ゲバラはボリビア、ペルーと旅し、グアテマラに向かった。

 グアテマラで、ペルー人の亡命女性活動家、アメリカ革命人民同盟(APRA)のイルダと出会い、恋におちいった。

 イルダはロシア革命に精通しており、レーニン、トロツキー、毛沢東についてのゲバラの教師であった。



 グアテマラでゲバラは、アメリカの反革命干渉に抵抗して、抵抗軍に身を投じたが、

 追われる身となり、イルダとともにメキシコに逃亡した。

 そこで二人は結婚し、娘イルデイタが誕生した。

 (イルダは1970年はじめに、娘イルデイタは1995年、父親と同じ39歳で亡くなった。)



 イルダはゲバラを、キューバ人亡命革命家たちに引き合わせた。

 そのリーダがカストロであった。

 1955年7月、二人は出会い、そこで10時間も話し合った。

 その日から、医師ゲバラは革命の戦士になった。



キューバ革命成功



 メキシコシテイー郊外の農場で、ゲリラ軍としての軍事訓練(行軍、登山、個人戦、射撃、ゲリラ戦理論等)が始まった。

 しかし、メキシコ警察に動きをつかれまれ、カストロ、ゲバラとも、30人が逮捕され、投獄された。

 カストロは1週間、ゲバラは57日間の投獄であった。

 容疑不十分で釈放されたが、計画が察知された以上、一刻の猶予もなかった。



 カストロ達はおんぼろヨット「グランマ号」に82人(8人乗りで上限25人)を乗せて、

 キューバに向け、メキシコを出航した。

 嵐のため7、日間かけてやっとの思いで、キューバに上陸(実際は座礁)した。

 しかし待ち構えていた「バチスタ政府軍」に銃撃を受け、仲間は次々に殺された

 かろうじて生き延びた12名は、シエラ・マエストラ山中(反バチスタの農民5万人が暮らし、ゲリラ活動には最適の場所)

 にこもり、新たなゲリラ戦の準備をした。

 12名の中に、カストロとゲバラがいた。



 ゲバラは山中で農民とともに生活し、夜には読み書き教室を開き、医療や歯の治療にあたった。

 彼のすばらしい評判は、瞬く間に広がった。

 ゲバラは新聞「自由キューバ」を発行し、ラジオ放送局を開局した。

 政府軍による「ゲリラ兵は一掃した」という、嘘の情報を、これらで粉砕した。

 地元の農民がゲリラ軍に次々に加わり、各地で局地的なゲリラ戦を開始した。

 1年半がたち、ゲリラ軍の組織も固まり、攻勢に転じた。



 1958年、ついにエル・イグエで決定的勝利をおさめた。

 ゲバラは司令官(コマンダンテ)に任命され、キューバ革命の指導者の一人となった。

 政府軍は空軍と海軍も出動させたが、何千という農民が次々に革命軍に加わり、

 ついに1959年1月1日、ゲリラ軍はサンタクララを占拠し、1月3日にはハバナを占拠した。

 政府軍は総崩れになった。

 ついに革命が成功した。



 

 

革命後のゲバラ



 革命後、改革は急ピッチで進められた。

 ゲバラは最初の数ヶ月間は、農地改革のための計画に没頭した。

 6月には大使として、3ケ月間で12か国を歴訪した。

 日本も訪問した。

 東京都知事、外務大臣、通産大臣と会談し、トヨタ自動車工場を見学した。

 当時の通産大臣である池田隼人は、わずか15分間だけ時間をさき

 「日本と通称協定を結びたかったら、まず日本の繊維製品を買え!」という高飛車な対応をした。



 秘密裏に広島の原爆資料館も見学した。



 帰国すると農業改革における工業化の責任者になった。

 大農園を解体し、国営農場を造り、砂糖とタバコ農園を国有化した。

 かつてキューバの公益事業を全面的に支配し、利権をほしいままにしてきたアメリカは激怒した。

 CIAは亡命者を操り、カストロ暗殺を含め、新政権の転覆を図った。

 大統領ケネデイは1960年、1500人の亡命キューバ人を送り込んだが、国家転覆に失敗した。



 新たにソ連砂糖の輸入国になった。

 1960年、ソ連との間に「貿易援助協定」が結ばれた。

 ゲバラは11月には国立銀行総裁に就任した。

 1961年には工業相に、62年にはキューバ統一革命組織幹部会メンバーを歴任した。

 ゲバラは「自主的労働」を説いて、寝る間も惜しみ(1日2~3時間の睡眠だけ)、率先して働いた。



 



 



 



 



 その間、イルダとは離婚した。

 革命軍の若き戦士であり、教師であり、秘書であったアレイダと再婚し、4人の子供をもうけた。



 



 1962年、ケネデイは国交断絶に踏み切った。

 アメリカのキューバ侵攻に危機感をもったカストロは、軍事面でもソ連との関係を強化した。

 ついに核戦争の一歩手前の「キューバ危機」にまで発展した。

 危機は回避されたが、キューバ抜きのフルシチョフとケネデイの秘密合意にゲバラは激怒した。



カストロに宛てた「別れの手紙」



 工業相としてのゲバラの厳格な労働者の管理、几帳面な性格と尊大な語り口、

 カストロとの特別な関係、人間的社会主義の主張、ソ連批判、献身的な自主的労働等々、

 ゲバラを慕うが、革命思想と行動についていけない勢力が政府の中に生まれた。



 事実上、内政からは締め出された。

 再びキューバを代表して3ケ月の外遊に出た。

 だがアルジエリアでついにゲバラは公然とソ連を批判した。

 「ソ連は・・帝国主義的搾取の共犯者である・・」。

 ソ連はカストロに、ゲバラを指導部から追放しなければ、援助は削減すると脅した。

 帰国したゲバラは、丸2日間カストロと話しこんだ。



 



 しばらくしてゲバラは消息を絶った。

 10月3日、キューバ共産党第一回大会でカストロは、ゲバラからの「別れの手紙」を読み上げた。



再び戦場へ



 65年4月、ゲバラは新たなゲリラ戦を求めて、200名の黒人キューバ人とともに、コンゴのジャングルに入った。

 しかし、そこでは完膚なきまでに惨敗した。

 (このあたりのことは映画を見てください。)

 チェコのプラハに4ケ月滞在した後、変装して秘密裏にいったんキューバに戻った。

 カストロと相談した結果、新たにボリビアの向かうことにした。

 カストロが送り込んだ秘密工作員とともに、ゲリラ基地を作り、首都にも地下組織を作った。

 新たなゲリラ戦が開始された。

 だが、そこの農民はキューバほど窮乏していなかった。

 むしろ炭鉱労働者こそが窮乏していた。

 親ソ連の、ボリビア共産党の支援も駄目だった。



 1967年10月6日、野営していたゲバラら17人は、政府軍6個小隊に包囲され、

 ゲバラは捕まり、翌日小学校の教室で銃殺された。 (1967年10月8日)                             































戸井十月さんは、思っていたとおりの人でした。

面白かったよ。戸井十月さんの講演は。



 はるばる、三重県から大阪まで出てきた甲斐がありました。

 戸井十月さんの講演は、非常に面白かったですね。

 堅苦しい、政治的集会とは違って、キューバを、ゲバラを、カストロを、心底から好きになった男の、

 ロマンあふれる、なんと心温まる講演だったことか。



 講演の内容については、いずれ主催者から報告される、と思いまさすので、割愛します。



 前もって『ゲバラ最期の時』『カストロ 銅像なき権力者』を読んできたので、

 講演の中身がよく理解できました。

 戸井さんも多少、記憶力が弱まってきたのか、年代など、思い違いの部分も

 あったように思いましたが、ご愛嬌ですね。



 



 昔からの、友人付き合いのある、菅直人新総理や蓮舫を「アイツラ」呼ばわりし、

 無茶苦茶な旅をしたゲバラとその兄貴分のグラナドスを、

 さらには10人乗りのグランマ号に、80人を乗せてキューバに潜入したカストロ

 「アホとしかいいようがない」とけなすなど、型破りな口上の戸井さん。



 でも、その「アホ」を、親しみを込めて紹介するさまは、なんと生き生きとしていることか。

 自分もその「アホ」を、「ムチャクチャ」を卒業できないでいる、と言い切る戸井さんは、きっと自分を

 ゲバラやカストロの「アホ」に、ダブらせているのでしょうね。親しみを込めて



 彼は生涯、これからも旅を続けるでしょう。ちゃんちゃんこを着たオールド・ライダーとして。

 農地と動物に拘束される園長としては、本来、根っこからの風来坊のクーバフアーマーとしては、

 うらやましい限りです。

 

 「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」。(芭蕉、最期の句)

 これもよき人生かな。

 



 

 戸井さんの著書は、大変読みやすいので、ぜひとも読んでみてください。

 戸井さんのホームページ「越境者通信」も見てください。

 

 また、バイクの世界レースにも挑戦するようですが、多少は御自愛を。

 とりあえずは、感想まで。

 

 

 

悲惨な猟銃事故(京都)。他人事じゃないよ!

悲惨な猟銃事故。他人事じゃすまないよ!



 京都でイノシシと鹿を駆除しようとしていた、地元の猟友会のメンバーが

 誤って仲間の頭を打ち抜き、それを苦にして、誤射した人が自殺したようです。

 悲惨な事故で、他人事には思えません。



 各地の猟友会のメンバーは、ほとんどが70歳前後の高齢者です。

 この年になれば、目もおぼろげになり、遠くの物は、正直見えないと思います。

 とっさの判断力も、かなり衰えます。もみじマークの自動車運転と同じですね。

 怖くて近寄れませんもの。



 鳥獣を追って山を駆け回るのは、酷というものだ。

 それなのに、行政の要請では、狩りに出ないわけにはいかない。また本人も好きだから。

 

 私は、「わな猟」の免許しか持っていません。

 何故かって。銃は、正直あぶないから。まだ50歳台なのに、もう、遠くの物は見ずらい。

 多分、私なら50%の確率で見誤るだろうね。

 人間が「わな」にかかっても、死ぬことはまずないが、銃は即死だ。



 猟友会の高齢者対策として、公務員に「狩猟免許」を取らせる地方の自治体が増えているという。

 えらい時代になったもんだ。



 病気と同じで、いくら狩猟を強めたところで、その場しのぎの、「対処療法」でしかない

 猟友会のメンバーのジリ貧は、以前からわかっていること。

 旧林野庁のかけ声で、山はスギとひのき林だけになり、いまや手入れもできずに、荒れ放題。

 結局は「花粉症」を蔓延させただけの、悪名高き旧林野庁

 鳥獣のえさの宝庫の「雑木林」は消滅しつつある。

 放棄地が、鳥獣の格好の隠れ場所になっている。

 天敵の犬は、いまや鎖につながれ、無能と化した

 無力にほえるだけ。鹿にも馬鹿にされている。



 クーバフアームも、「鳥獣対策」だけで、かなりの尽力だ。

 行政は、結局は、何もやってくれない。というよりも、何もできない?



 

 もっと「鳥獣対策」に、根本的な解決策を考えないと。

 そのうちに日本の農業と林業が壊滅するよ



 下は、新聞の記事です。



「間違って撃った」無線後に銃声…鳥獣駆除2人死亡     ( 6月5日 読売新聞 )





 5日午後2時20分頃、京都府福知山市猪野々の山中で、有害鳥獣の駆除をしていた

地元猟友会所属の同市堀、自営業中嶋慶喜さん(67)と同市かしの木台、会社員三宅

諭さん(65)が血を流して倒れているのを、猟友会の仲間らが見つけた。

 2人は間もなく死亡が確認された。福知山署員が調べたところ、いずれも猟銃で撃たれ

た跡があった。

 中嶋さんは「間違って撃ってしまった」などと仲間に無線で話していたという。

 同署は、中嶋さんが誤って三宅さんを撃った後、自殺した可能性があるとみて、当時の

状況を調べている。

 発表によると、三宅さんは頭部を撃たれていた。約100メートル離れた所で中嶋さんが

倒れており、胸付近に撃たれた跡があったという。2人は、この日午前9時頃から仲間3人

と福知山市の依頼で有害鳥獣の駆除のため山に入り、別行動でイノシシやシカの猟をし

ていた。

 捜査関係者によると、中嶋さんが当時、兄に携帯電話をかけて、「けが人が出た」などと

119番を依頼。同じ頃、無線で仲間に「えらいことをした。間違って撃ってしまった」などと

話していたという。

 無線を聞いた仲間が駆けつけようとした際、銃声が聞こえ、現場で倒れている2人を発見

した。

 2人はいずれも35年ほど前に狩猟免許を取得。この日、中嶋さんは散弾銃を、三宅さん

ライフルを使っていた。








キュウリの苗が、「根きり虫」の被害に

「根きり虫」が出没



 最近、茎が噛み切られている野菜が目立つようになりました。

 被害にあったのは、ジャガイモ、パセリ、にんじん、キュウリ、しし唐です。

 犯人は、「根きり虫」です。鳥も加担しているかも?



 蛾の幼虫です。さまざまな種類がいます。

 昼は地中に隠れ、夜に活動を始めます。

 まるで、強盗です。



 匂いのきついパセリやにんじんは、被害にあわないと思いきや、違いました。

 人間と同じで、好き嫌いがあるのでしょうか?

 私のように、にんじんとパセリは大好物、の人もいれば、

 絶対食わないと、拒絶する人もいる、ように。



 噛み切られた茎の根元を、少しだけ掘ると出てきます。

 薬剤は使わない主義なので、一匹づつ見つけては処罰します。

 踏み殺し刑です。

 別名、プチプチ刑です。踏むと、プチとつぶれるから。

 

 単純な疑問が一つあります、

 「茎を噛み切る」のに、なぜ「根きり虫」なの?

 できれば、「茎きり虫」と命名してほしいなあ。

 

 

 

 



 



 



 



 ウリハムシも群がるようになりました。

 下の写真は、たまたま一匹だけオクラの葉にとまっていました。



  



 キュウリの葉が、集中攻撃されています。

 漢字で「瓜葉虫」と書きます。瓜科の野菜がねらわれます。

 食われた葉は、網目のように無残な姿になります。

 これは、葉がほぼ食い尽くされ、瀕死状態のキュウリの苗です。



 



 その対策とした、台所の三角コーナー用のネットをかぶせてみました。

 結構、有効だと自負しています。

 

 殺虫剤の代わりに、ママレモンの希釈液を、相手めがけて散布します。

 これもかなり効果があります。



 



 

 

 これからは、アブラムシ青虫など、次々に現れるはずです。

 楽しくも、厳しい季節の到来です。

 

 

キューバを語る戸井十月さんの講演会の案内(6月6日)

戸井十月さんの講演会の案内(6月6日)



 私のブログにリンクしている「キューバを知る会・大阪」が主催する講演会を紹介します。

 というのも、18歳から去年まで大阪に住んでいた私も、実はその会の会員なのです。

 学生時代の友人(女性)が、会の代表を務めています。

 

 戸井十月(といじゅうがつ)さんの講演会

キューバ革命・カストロ・ゲバラを語る

 6月6日(日)13:30~16:30

 大阪阿倍野市民学習センター講堂



 キューバ・ゲバラに関心のある人でも、三重県から大阪まで講演を聴きに行くのは大変ですね。

 私が三重を代表して、参加しましょうかね。

 報告はまたブログで。

 講演会の詳しい案内は、「キューバを知る会・大阪」ブログを見てください



 これだけでは、少し無愛想なので、もうすこしつけ足しましょうか



 戸井さんは私より4歳年上、いまだにオートバイを乗り回す初老ライダーです。

 10月生まれだから十月(じゅうがつ)と命名されたそうな。

 かなりいい加減な、人形使いで、画家の親父さんですね。

 実はそのおやじさん、「秩父事件」の研究では、かなり知られた人だそうな。

 若くして共産党に入党したが、50年代には党と訣別、でも根っこからのマルクス・エンゲルス主義者だったと。

 だから、十月と命名したのには、ロシア十月革命にちなんでつけたのがどうも真相らしい。



 おじには、水戸黄門役の西村晃さんがいた。

 どうも育った環境には、サラリーマンはいないらしい。



 というわけで、もともと画家志望が、バイトの延長でいつのまにやらルポライター、小説家、映像作家に。

 暴走族とのかかわりで、30歳にしてオートバイに取り付かれ、2009年には5大陸を走破した、

 れっきとした野人、一生涯の旅人です。



 戸井さんとキューバとのかかわりについては、講演会の中身になるので、あえてふれないことにします。

 私が戸井さんを知ったのは、「植木等伝」という本の著者だったからです。



 



 実は、植木等の父親(徹誠てつじょう)は、三重県の伊勢(大湊)出身です。

 彼の生涯は、波乱万丈です。クリスチャンから社会主義者へ、

 さらには親鸞主義者の坊主となり、部落解放運動に目覚め、

 「全国水平社運動の最後を飾る朝熊(あさま)闘争」を再興させ、「人民戦線事件」で投獄、3年以上獄中に、

 そしてついには共産党入党と。坊主が共産主義者に変身したのです。



 植木等は、幼い頃からそのあたりのことを、全部見ているわけです。

 獄中の父に代わり、檀家回りまでしているのですから。

 そして、親父を尊敬しているのです。

 だから、彼が芸能界という虚構の世界にいながらも、決しておごりたかぶらず、

 見かけとは大違いの、真正直で、くそまじめで、生涯、質素に、つつましく生きたのです。



 その植木等伝を書いた戸井さんにも、実は植木等と同じ匂いがするのです。

 だから、私は戸井さんに惹かれるのです。



 横道にずれますが、植木等の父親(徹誠てつじょう)の生い立ちについては、『夢を食いつづけた男ーおやじ徹誠一代記』を是非読んでください。

 この本は、植木等が自らの記憶をもとに、妹の夫で、歴史学者の川村善二郎さんとともに、関係者

 や現地での聞き取り調査で足跡をたどり、北畠清泰さんの手でまとめあげたものです。



 蛇足ですが、私が大阪に行くときにいつも通る、旧宮川村(現・大台町)の栗谷地区には、

 植木等が3歳の頃に移住した、浄土真宗大谷派「常念寺」跡の石碑があるようです。

 機会を見つけて、一度は訪れようと思います。



 



 そして、戸井さんが、自分の人生哲学を、語り口調で平易に書いた

 「熱き風の彼方へ」が、なんだか私の人生哲学と同じ匂いがしたのです。

 またまた彼に惹かれました。



 



 極めつけは、クーバ(キューバ)への愛着でしょうか。

 我が農園「クーバフアーム」という命名も、キューバの農業と生活を見習いたい、

 という思いがあったからです。



 



 



 戸井さんのキューバへの、というよりもカストロとゲバラへのこだわりは、相当なものです。

 私なんかとは、比べようもありません。

 私の所有しているだけでも、彼のキューバ関連の著書は5冊もあります。







 この「カストロー銅像なき権力者」は7年前の著書ですが、

 これを読むと、キューバの現状、カストロの人物像がかなり分かります。

 いっぺんにキューバとカストロのフアンになること間違いなしです。

 



 これは、戸井さんが念願がかなって、カストロと対面したときのシーンです。

 なんとまあ、うれしそうな顔だこと。かなり肩に力がはいっていますけど・・・。

 

 



 下の三冊は、ゲバラに焦点を当てたものです。

 特に三冊目の「ゲバラ 最期の時」は、ゲバラの遺体が30年後に発見

 された時のことがかなりリアルに描かれており、強烈に印象に残っています。



 



 



 



 



 今から講演が楽しみです。

 

 

 

三重の山奥にまで響く鳩山の退陣劇

三重の山奥にまで響く鳩山退陣劇



 今日のラジオは、一日中、鳩山辞任の放送でしたね。

 三重の山奥にまで、政変劇が鳴り響いていましたよ。

 民主党政権は、ついに最後の手?をきったと見るべきでしょうね。

 支持率10パーセント台では、これしか手がない、といえばそれまでだけど。

 でも鳩山も、最後には意地をみせましたね。小沢を道連れにするなんて。

 本来の性格である頑固さが、この二日間、貫徹されたようですね。

 無理心中の相手にされた小沢は、普段から無愛想なのに、

 一段と無口・無愛想・不機嫌・しかめっ面になっていることでしょう、おそらく、いやきっと。



 政権の「頭」が変わったら、何が変わるのだろうか?



 今回の「政変劇」は、単なる参議院選挙対策の「茶番劇」かもしれない。

 前回の衆議院選挙では、馬鹿みたいに期待感をばら撒いて、票をかすめとった。

 今回も、リーダが変わったから政権も変わる、という期待感をばら撒いて、

 これ以上票が逃げるのをくいとめよう、というのが真相ではないだろうか。

 二度とだまされないように、警戒!警戒!警戒警報を発令します。



 民主党政権は変わるのか、目を凝らして監視することが必要だね。

 私の関心からは、少なくとも次の点に注視したい。



 ・沖縄の普天間問題

  先に「日米合意」なんかしちゃって、どないすんの?それをひっくり返す度量はあるの?



 ・消費税導入の衝動は消えていない。管直人副総理はその牽引者だ。



 ・高校授業料「無償化」からの朝鮮学校の排除は続いている。

  三重選出の中井洽・国家公安委員長の朝鮮学校排除要請は、犯罪的だ。

  しかも毎晩のように飲み歩き、女性を官舎に連れ込む公安委員長なんて、三重県人の恥さらしだ



 ・高速道路無料化は、頓挫したまま。



 ・「コンクリートから人へ」は、ほぼ消滅

  公共事業削減は後退

  「無駄なダム建設廃止」で名を売った前原国土交通大臣なんかは、

  今や率先して、外国に新幹線の売り込みに行っている。



    等々。

 

 代表選出までの2日間、自民党よりも右の部分から、旧社会党左派までの混成チームの中で、

 さまざまな駆け引きがあるだろう。おそらく、でしゃばり・おしゃべりで、沖縄問題にはそ知らぬ顔をしてきた管直人が・・・・。

 誰が代表になろうと私には関係ないが、問題は政策だろうね。

 われわれフアーマーや労働者に敵対する政策を取れば、そのときは打倒を宣言するよ!ほんまに!!
ワンコウォッチ[ジュエリック・シルバー]
プロフィール

    「ぎーやん」

Author:    「ぎーやん」
 定年を待たずに退職し、長年の夢だった「自給自足的生活」に、無謀にも挑戦しています。
 たった一人で、日夜、鳥獣と格闘しながら、「クーバフアーム」と名付けた里山を、試行錯誤しながら、切り盛りしています。場所は三重県の山奥。奥伊勢の一角です。
 おかげで今や、スリムな肉体に大変身。この1年で、10キロの体重減。なにやら栄養不足の影の声も・・・チラホラ?
 毎日を、上の写真のような笑顔ですごしたいものですネ。
この似顔絵は、元同僚の、招来猫子さんの作です。

連絡先 
(メール) giyan@ma.mctv.ne.jp   
   クーバフアーム所長   まで。

 

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